屋台の季節到来。むかし銀座裏でおでんと茶飯が名物だった店を思い出す。(哲




2009ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102009

 芙蓉閉づをんなにはすぐ五時が来て

                           坂間晴子

蓉の季節の午後五時は、ちょうど日の入り間近の時間である。秋の晴天は日が沈むとみるみる暗くなる。またたく間の日の暮れかたで、ようやく夜がそこまで近づいていることに気づく。五時とは不思議な時間である。掲句の、女に近寄る五時とは、生活時間だけではなく、ふと気づくとたちまち暮れてしまう人生の時間も指しているが、芙蓉の花がむやみな孤独から救っている。朝咲いて夕方には萎んでしまう芙蓉が悲しみを伴わないのは、数カ月に渡って次々と花を咲かせるからだろう。すぐ五時が来て、夜が訪れるが、また朝もめぐることを予感させている。年齢を3で割ると人生の時間が表れるという。24歳の8時は働き始め、30歳は10時、45歳は15時でひと休み。黄昏の17時は51歳となる。所収の句集は、昭和三年生まれの作者が50歳になる前に編まれたもの。四十代の女性の作品として紹介していただいた句集である。若くもなく、かといって老いにはまだ間のある四十代を持て余しているようなわたしに、こつんと喝を入れる一冊となった。〈ヘアピンもて金亀子の死を確かむる〉〈背を割りて服脱ぎおとす稲光〉〈水澄むやきのふのあそびけふ古ぶ〉『和音』(1976)所収。(土肥あき子)


October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)


October 18102009

 手榴弾つめたし葡萄てのひらに

                           高島 茂

句を読み慣れている人には容易に理解できる内容も、めったに句を読む機会のないものには、短すぎるがゆえに何を表現しているのか正確にはわからないことがあります。たとえば本日の句では、てのひらに載っているのは手榴弾でしょうか、あるいは葡萄でしょうか。どちらかがどちらかの比喩として使われていると思われるものの、断定ができません。間違いなくわかるのは、「つめたし」が手榴弾にも葡萄にも感じられるということ。どちらにしても双方の、小さな突起を集めた形と、個々の表面に感じる冷たさが、作者の複雑で繊細な心情をしっとりと表しています。ほどよい大きさの、それなりの重さを手に持つことは、なぜか気持ちのよいものです。生き物ではなく、物に触れることによってしか保てない心というものが、たしかにあります。手榴弾、葡萄という魅力的に字画の多い漢字を、「つめたし」「てのひらに」のひらがながやさしく囲っています。じっと冷え切った物に対峙するようにして、柔らかな皮膚をもった私たちが、句の中に置かれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)




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