若い頃この辺(石神井)に住んでたけれど、提灯屋さんってあったかなあ。(哲




2009ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102009

 葱に住む水神をこそ断ちませい!

                           天沢退二郎

てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。「蜻蛉句帳」41号(2009)所載。(八木忠栄)


October 20102009

 芙蓉閉づをんなにはすぐ五時が来て

                           坂間晴子

蓉の季節の午後五時は、ちょうど日の入り間近の時間である。秋の晴天は日が沈むとみるみる暗くなる。またたく間の日の暮れかたで、ようやく夜がそこまで近づいていることに気づく。五時とは不思議な時間である。掲句の、女に近寄る五時とは、生活時間だけではなく、ふと気づくとたちまち暮れてしまう人生の時間も指しているが、芙蓉の花がむやみな孤独から救っている。朝咲いて夕方には萎んでしまう芙蓉が悲しみを伴わないのは、数カ月に渡って次々と花を咲かせるからだろう。すぐ五時が来て、夜が訪れるが、また朝もめぐることを予感させている。年齢を3で割ると人生の時間が表れるという。24歳の8時は働き始め、30歳は10時、45歳は15時でひと休み。黄昏の17時は51歳となる。所収の句集は、昭和三年生まれの作者が50歳になる前に編まれたもの。四十代の女性の作品として紹介していただいた句集である。若くもなく、かといって老いにはまだ間のある四十代を持て余しているようなわたしに、こつんと喝を入れる一冊となった。〈ヘアピンもて金亀子の死を確かむる〉〈背を割りて服脱ぎおとす稲光〉〈水澄むやきのふのあそびけふ古ぶ〉『和音』(1976)所収。(土肥あき子)


October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)




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