『Limits of Control』。詩と映画を良く勉強して作った学生映画みたいだ。(哲




2009ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102009

 田圃から見ゆる谷中の銀杏かな

                           正岡子規

規が見る景色すなわち子規の作品の中の風景というのは「見ること」「見えること」そのこと自体を目的とする風景のように思えてならない。何を見るのかということや、見て何に感動するということよりも、見るということ自体に意味がある、そんな風景である。たんぼの中から谷中の銀杏の巨木を見ている。子規つまり、内部に「生きている私」を抱えた存在が眼という窓を通して風景を見ている。見ていること自体が存在することなのだ。この句から谷中の下町の風情などを読み取ろうとするのは子規の写生を読み解く本意にあらずと僕は思う。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 22102009

 棒切れで打つ三塁打柿熟るる

                           ふけとしこ

さい頃は近所の友だちとよく野球のまねごとをした。まずは男の子に混じって、庭先や路地の奥でささくれのないすべすべの木切れを探す。なかなか好条件の棒切れに出合えず折れ釘で手を引っ掻いたり、指に棘が立つのはしょっちゅうだった。小遣いで買ったゴムボールはあたればあっというまに塀を越してホームラン。そのたびごとにチャイムをならしてボールを探させてもらった。打つ順番はなかなかこなくって外野でぼんやり眺めているとたちまちにボールは後ろに飛び去っていく。走者にボールを当てればアウトとか、あの木まで飛べば三塁打とか、そのときの人数や場所のサイズに合わせてルールを決めていたっけ。たわわに熟れる柿と三角ベース、そんな光景もセピア色の思い出になってしまったが、さて今の子供たちはこの気持ちのよい季節にどんな遊びを記憶に残すのだろう。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


October 21102009

 葱に住む水神をこそ断ちませい!

                           天沢退二郎

てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。「蜻蛉句帳」41号(2009)所載。(八木忠栄)




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