台風擦過。東京の気温は昨日より10度も高くなりそうだという予報。(哲




2009ソスN10ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 27102009

 末枯や子供心に日が暮れて

                           岸本尚毅

枯(うらがれ)とは、枝先、葉先から枯れはじめ、近寄る枯野を予感させる晩秋の景色である。盛りを過ぎた草木のあわれを訴える季題ではあるが、そこには日差しの明るみも潜んでいる。掲句を、子供心にも日暮れどきには感傷じみた思いになる、と読んだが、子供が意識する日暮れには「さみしさ」よりも、はっとする「焦り」の方が頻繁だったように思う。遊びに夢中で門限を過ぎていたとき、宿題をすっかり忘れていたとき、子供時代は他愛ないことで年中うろたえていた。子供にとっての一大事は、大人になった今思えば「そんなことで」と首をかしげるようなことばかりだが、そのたびにたしかに叱られてもいたのだから、大人も「そんなことで」叱ってばかりいたのである。そう思うと、掲句は単に日没への郷愁というより、「あーあ、どうしよう」という途方に暮れた感情が入り乱れているように思えてきた。末枯によって光と影が交錯し、全体に哀愁を含ませている。子供心の複雑さは、カッコわるいと思っていること(カッコいいと思っていることも)が大人と大いに違っている点にある。〈望なりし月すぐ欠けて秋深し〉〈ぽつかりと日当るところ水澄める〉『感謝』(2009)所収。(土肥あき子)


October 26102009

 ペンダントの透明な赤秋惜しむ

                           伊関葉子

に見しょとて紅鉄漿(べにかね)つきょぞ……。唄の文句じゃないけれど、女性のお洒落は要するに異性を惹きつけるためなんだろう。学生時代、クラスの女性にづけづけと言ったら、たちどころに切り返された。それもある、否定はしない。でも、お洒落の最大の効用は、その時々の気持ちの表現手段になることであり、気分をコントロールできるることだ。つまり、ほとんどは自分のためなのよ。彼女の言外には、年中学生服で通しているカラスみたいなあんたには所詮わからないでしょうけどねと、そんなニュアンスがあった。言った当人はもうすっかり忘れているだろうが、私はいまだにちゃんと覚えている。社会人になってネクタイに凝ったりしたこともあり、そのときにも彼女の言を思い出していた。なかなかの名言だなと思う。回り道になったけれど、掲句のペンダントにしても気分のコントロールから、透明な赤を着けているのだろう。装身具によるお洒落は、必要不可欠というわけではないだけに、余計に気分に左右されるはずである。いろいろの色彩を考えてみたが、物寂しい晩秋には、やはり赤がいちばんしっくりとくるような気がする。それも、澄んだ大気に呼応する透明な赤色。着けていてときどき目の端に入るその色を意識すると、行く秋への思いもいちだんと深まってくるようだ。そして、句自体にも、この赤色が清潔な透明感を与えている。このところ気温もだいぶ低くなってきて、来週には暦の上の冬が控えている。まさに「秋惜しむ」の感。なお、さきほどの唄は「京鹿子娘道成寺」の一節。「みんな主への心中だて」とつづく。意味不明のまま、小学生の頃に覚えた。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 25102009

 一つぶの葡萄の甘さ死の重さ

                           稲垣 長

週に続いて葡萄の句です。先週の葡萄は手のひらに乗せられていましたが、今週の葡萄は、薄い皮をめくられ、静かに口の中に入れられています。思えば時代と共に、葡萄にも改良が重ねられてきたようで、わたしが子供の頃に食べたものは、粒も小さく、中には大きな種が入っていて、種の周りはひどくすっぱかった記憶があります。だから梨とか桃のように、全体がまるごと甘い果物ほどには、ひかれることはありませんでした。しかし今では、粒も見事に大きく、種もなく、どうだといわんばかりの見事な果物になりました。ここに描かれている「一つぶ」も、現代の見事な姿の葡萄なのでしょう。人として生れ出て、なすべきことはたくさんありますが、日々、ひたすらに食べ続けることが、比喩でもなんでもなく、そのまま生きていることの証になっています。だからなのでしょうか。球形の見事な形と、とても甘い味をした、命の美しさそのもののような葡萄を、生死の秤の片方に置いてみたくなる感覚は、よくわかります『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年10月19日付)所載。(松下育男)




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