コンテナ船護衛艦の針路にはみ出す。船は「進路」ではなく「針路」か。(哲




2009ソスN10ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 29102009

 ブラジルは世界の田舎むかご飯

                           佐藤念腹

かごは自然薯のつるにつく小さな肉芽。指の先ほどの丸い実をご飯に炊き込むとむかご飯になる。虚子の「季寄せ」を何気なくめくっているうち、オリンピック開催で話題のブラジルとむかご飯との取り合わせに目がとまり、新鮮な驚きを感じた。新潟出身の念腹(ねんぷく)は1913年にブラジルへ移住した。戦前は長男が家督のすべてを継ぐ慣わしだったから農家の次男、三男は故郷を出て新天地を切り開くしかなかった。彼もまた大農家になることを夢見て「世界の田舎」であるブラジルへ人生を賭けて渡り、未開の原野を切り拓いていったのだろう。つましい食卓に出された芋はむかごなのか、むかごに似た現地の芋なのかはわからないが、ブラジルの「むかご飯」に日本への望郷の思いをかぶせている。彼の地で農業に俳句に力を尽くした念腹の地元新潟には掲句の句碑が建てられているそうだ。「虚子季寄せ」三省堂(1940)所載。(三宅やよい)


October 28102009

 月の出を待つえりもとをかき合せ

                           森田たま

の出を待つなどという風情も時間も、現実にはほとんど失われてしまったのかもしれない。いや、それでも俳人のあいだでは、月の出を待って競作しようとか、酒を楽しもうという情趣が残されているのかもしれない。えりもとをかき合わせる仕草も、舞台や高座ではしっかり生きている。今月初めにたまたま北欧のある町を歩いていて、街路から遠くにぽっかり浮かんでいる満月に気がついてビックリ。何の不思議もないわけだが、妙にうれしく感じられる月だった。思わずカメラを向けたのだが、他にその月に気づいている人はいないようだった。掲出句の御仁は、どんな状況で月の出を待っているのだろうか。えりもとを思わずかき合わせたのは、おそらくちょいとした緊張と寒さのせいだったものと思われる。それがどんな状況であれ、いかにもシックな女性らしい仕草ではないか。ふと気づいた月の出ではなく、月の出を今か今かと待っているのであり、出を待たれている月があるという、かすかで濃い時間がそこに刻まれている。えりもとをかき合わせるという仕草によって、さりげないお色気もここには漂っている。たまは多くの俳句を残しているが、月を詠んだ句に「はろばろと空の広さよ今日の月」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 27102009

 末枯や子供心に日が暮れて

                           岸本尚毅

枯(うらがれ)とは、枝先、葉先から枯れはじめ、近寄る枯野を予感させる晩秋の景色である。盛りを過ぎた草木のあわれを訴える季題ではあるが、そこには日差しの明るみも潜んでいる。掲句を、子供心にも日暮れどきには感傷じみた思いになる、と読んだが、子供が意識する日暮れには「さみしさ」よりも、はっとする「焦り」の方が頻繁だったように思う。遊びに夢中で門限を過ぎていたとき、宿題をすっかり忘れていたとき、子供時代は他愛ないことで年中うろたえていた。子供にとっての一大事は、大人になった今思えば「そんなことで」と首をかしげるようなことばかりだが、そのたびにたしかに叱られてもいたのだから、大人も「そんなことで」叱ってばかりいたのである。そう思うと、掲句は単に日没への郷愁というより、「あーあ、どうしよう」という途方に暮れた感情が入り乱れているように思えてきた。末枯によって光と影が交錯し、全体に哀愁を含ませている。子供心の複雑さは、カッコわるいと思っていること(カッコいいと思っていることも)が大人と大いに違っている点にある。〈望なりし月すぐ欠けて秋深し〉〈ぽつかりと日当るところ水澄める〉『感謝』(2009)所収。(土肥あき子)




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