どちらも応援してないけれど、なんとなく日本シリーズをテレビ観戦。(哲




2009ソスN11ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 02112009

 淋しくて燃ゆるサルビアかも知れず

                           山田弘子

のサルビアが好きだ。とくに、この季節の……。多くの歳時記では夏の季語とされているが、花期は長く、まだ盛んに咲きつづけている。他の植物がうら枯れていくなかで、その朱を極めたような様子には、どういうわけか淋しさを感じてきた。絶頂は既にして没落の兆しを孕んでいるからなのだろうか。長年こんな感じ方は私だけのものかと思っていたら、掲句があった。「かも知れず」とあるからには、作者もまた、自分だけの感性だろうかといぶかっているようにも思える。私にしてみれば、ようやく同志を得た心持ちがしている。サルビアといえば、だいぶ以前に女子大生三人組の「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」がある。失恋の歌だ。♪いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に投げ入れたくて……。私くらいの年齢には、こんなセンチな歌詞はもう甘ったる過ぎるのだけれど、淋しい歌にサルビアを持ってきた感覚はなかなかのものだと思う。ただし、作詞者はサルビア自体には淋しさを感じていない。むしろ元気な花と失恋との取り合わせから、淋しさを演出している。さて、早いもので季節は十一月。間もなく、さすがのサルビアの朱も消えてしまう。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 01112009

 月夜つづき向きあふ坂の相睦む

                           大野林火

を書こうとするときには、最初から遠くを見るのではなく、できるだけ近くの、小さなものから書いてゆこうと心がけています。細かいものを、正確に文字にうつすのが創作の間違いのない道筋であると、いつの頃からか確信を持ってきました。抽象的な概念を、大上段に振り回して事の真理を作品化してみようなどという行為が、少なくともわたしには、手にあまるものであると、経験から学んできたからです。だからなのでしょうか。大きな世界を、しっかりと描ききった作品を見ると、うらやましくもなり、それだけで深い感銘を受けてしまいます。今日の句も、坂が向き合う姿をダイナミックに描いて、わたしたちの前に示してくれています。むしろ俳句という、これだけ小さな世界だからこそ、大きなものを描くことに適しているのかもしれません。穏やかな秋の夜に、小さな商店街の並ぶ一本の谷を挟んで、二つの坂道が両側へ上っています。「相睦む」の一語が、読者へやさしく傾斜してくれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 31102009

 いゝぎりの実もて真赤な空ありぬ

                           飴山 実

桐(いいぎり)の実は秋季、来週はもう冬が立つ。そんな晩秋の一日、武蔵野市にある井の頭恩賜公園で吟行句会があった。武蔵野丘陵にある広い公園は、都心の芝離宮や小石川後楽園より少し冬に近い気がした。ざわざわと続く雑木林と散り敷く落ち葉、薄く黄葉したメタセコイヤの大木が続く先に、飯桐の木が一本。ひときわ赤い葡萄のような房状の、いかにも美味しそうな実を見上げながら、こんなに小鳥がいても残っているっていうのはあまり美味しくないのかしらね、などと言い合う。鮮やかな実はまさにたわわ、青空に映えていた。帰宅して掲出句を読み、ぱっと浮かんだのは空の青。飯桐の実がそこにあるから空が赤い、といっているだけなのだが、実の赤が広がっていればいるほど、その先の空は高く深く澄んでいる。見たままの風景をいったん心の中に刻んで、それらが語りかけてくる声に耳を澄ませながら、じっと言葉が生まれてくるのを待つ。そんなふうにして詠まれたのかもしれない、と思った。「新日本大歳時記 秋」(1999・講談社)所載。(今井肖子)




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