寒くなりましたね。昨年の我が家の初暖房は11月20日でしたが、今年は? (哲




2009ソスN11ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 04112009

 汽車道と国道と並ぶ寒さ哉

                           内田百鬼園

車道とはレトロな呼び方である。今なら「鉄道」とか、せいぜい「電車道」だろう。私などは幼い頃から呼びなれた「汽車道」という言葉が、ついつい口をついて出ることがある。だって高校通学では「汽車通(つう)」という言い方をしていたのだから。汽車ではなく、車輛不揃いな田舎の電車で通う「汽車通」だった。掲出句における作者内田百鬼園先生の位置は国道にいてもいいわけだが、ここは電車ではなくて汽車に乗っていると思われる。旅を頻繁にして「阿房列車」シリーズの傑作がある内田百鬼園であり、しかも明治四十二年の作だから、ここは汽車に乗っているとしたほうが妥当であろう。車内は暖房が少々きいていたか否か、いずれにせよ外の寒さに比べればましである。鉄道と国道が不意に寄り添う場所があるものだ。あれは妙におかしさを覚える。国道を寒そうに身を縮めて歩いている人を、車窓から眺めているのだろうか。あるいは人影はまったくないのかもしれない。車中の人は旅の途中であり、寒々とした田舎の風景が広がっているのだろう。汽車道と国道とが身を寄せ合っていることで、いっそう寒さが強く感じられる。「汽車道」という響きも寒さをいや増してくる。内田百鬼園は岡山一中(第六高等学校)時代に、国語教師・志田素琴に俳句を学んだ。掲出句は「六高会誌」に発表された。同年同誌に発表された句に「この郷の色壁や旅しぐれつつ」「埋火や子規の句さがす古雑誌」などがある。『百鬼園句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


November 02112009

 淋しくて燃ゆるサルビアかも知れず

                           山田弘子

のサルビアが好きだ。とくに、この季節の……。多くの歳時記では夏の季語とされているが、花期は長く、まだ盛んに咲きつづけている。他の植物がうら枯れていくなかで、その朱を極めたような様子には、どういうわけか淋しさを感じてきた。絶頂は既にして没落の兆しを孕んでいるからなのだろうか。長年こんな感じ方は私だけのものかと思っていたら、掲句があった。「かも知れず」とあるからには、作者もまた、自分だけの感性だろうかといぶかっているようにも思える。私にしてみれば、ようやく同志を得た心持ちがしている。サルビアといえば、だいぶ以前に女子大生三人組の「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」がある。失恋の歌だ。♪いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に投げ入れたくて……。私くらいの年齢には、こんなセンチな歌詞はもう甘ったる過ぎるのだけれど、淋しい歌にサルビアを持ってきた感覚はなかなかのものだと思う。ただし、作詞者はサルビア自体には淋しさを感じていない。むしろ元気な花と失恋との取り合わせから、淋しさを演出している。さて、早いもので季節は十一月。間もなく、さすがのサルビアの朱も消えてしまう。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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