ノ志芒ー句

November 11112009

 憎まるゝ役をふられし小春かな

                           伊志井寛

一月に入って寒さは、やはり厳しくなってきたけれど、思いがけない暖気になって戸惑ってしまう日もあったりする。そんな時はうれしいようでありながら、あわててしまうことにもなってしまう。「小春」は「小六月」とも「小春日和」とも呼ばれる。日本語には「小正月」「小股」「小姑」など、「小…」と表現する言葉があってなかなか奥床しい。伊志井寛は新派のスターとして舞台にテレビに活躍した。この句の場合、どんな芝居のどんな役柄なのかはわからないけれど、この名優にして「憎まるゝ役」をふられたことに対する当惑と、小春日和に対する戸惑いが、期せずしてマッチしてしまった妙味が感じられて、どこか微笑ましさも感じられる。役者にとっては憎まれ役だからいやとか、良い役だからうれしいとか、そんな単純な反応はあるまい。憎まれ役だからこそむずかしく、レベルの高い演技が必要とされて、やりがいがある場合もあるだろう。そこに役者冥利といったものが生じてくる。「厳冬」でも「炎暑」でもなく、穏やかな「小春」ゆえに「憎まるゝ役」も喜ばしいものに感じられてくるわけだ。松本たかしの句に「玉の如き小春日和を授かりし」がある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


October 17102012

 秋水の動くともなく動きけり

                           伊志井寛

ややかさを感じさせる「秋水」は、流れている川や湖の水とはかぎらない。井戸の水や洗面器に汲んだ水でもいいだろうが、秋の水ゆえに澄みきって、一段と透明に冷えてきている水である。名刀をたとえるのに「三尺の秋水」という言葉もあるようだ。掲句の「秋水」は「動くともなく」かすかに動いているのだから、川か池の水だろう。おそらく川の水が流れるともなく流れているさまを詠んだものだろう。「流れる」ではなく「動く」と詠んだところに、秋水をより生きたもののごとくとらえたかった作者の気持ちが感じられる。水は動きがないように見えてはいるけれど、秋の日ざしに浸るかのように、かすかにだが確実に流れている。それを見つめている作者の心にも、ゆったりした秋の時間が流れているようだ。せかせかしないで、秋は万事そうした気持ちでありたいものだと思うが、なかなか……。室生犀星の句に「秋水や蛇籠にふるふえびのひげ」がある。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)




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