昼食から戻るサラリーマン。日本橋辺りでは昼食代も馬鹿にならないだろう。(哲




2009ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12112009

 拾ひたる温き土くれ七五三

                           山西雅子

うすぐ七五三。近くの神社で晴れやかな着物にぼっくり下駄で歩く女の子や、ちっちゃな背広に臙脂のネクタイをしめた男の子と会えるかもしれない。普段は身軽な格好であちこちを飛び回っている子供たち、最初は嬉しくても着なれない衣装の窮屈さにだんだん不機嫌になることも多い。神主さんのお祓いまでの順番待ちや記念撮影の準備など、こうした祝い事には待ち時間がつきものだ。晴れ着を着た子が手持無沙汰に日向にかがみこんで足元の土を手でいじっている。おとなに手をひかれあちこち歩いて草臥れてしまったのだろうか。七五三と言えば、晴れ着姿や千歳飴に目がいきがちだけど、日溜りにしゃがみこんだ子供が手にすくった土くれの温もりは何気ない動作を背後から見守るやさしい親のまなざしにも通じる。神社に降り注ぐ小春の日差しに佇む親とその膝元にしゃがむ幼子。子の成長を寿ぐ特別な日の親子のひとときが映像となって浮かびあがってくる。『沙鴎』(2009)所収。(三宅やよい)


November 11112009

 憎まるゝ役をふられし小春かな

                           伊志井寛

一月に入って寒さは、やはり厳しくなってきたけれど、思いがけない暖気になって戸惑ってしまう日もあったりする。そんな時はうれしいようでありながら、あわててしまうことにもなってしまう。「小春」は「小六月」とも「小春日和」とも呼ばれる。日本語には「小正月」「小股」「小姑」など、「小…」と表現する言葉があってなかなか奥床しい。伊志井寛は新派のスターとして舞台にテレビに活躍した。この句の場合、どんな芝居のどんな役柄なのかはわからないけれど、この名優にして「憎まるゝ役」をふられたことに対する当惑と、小春日和に対する戸惑いが、期せずしてマッチしてしまった妙味が感じられて、どこか微笑ましさも感じられる。役者にとっては憎まれ役だからいやとか、良い役だからうれしいとか、そんな単純な反応はあるまい。憎まれ役だからこそむずかしく、レベルの高い演技が必要とされて、やりがいがある場合もあるだろう。そこに役者冥利といったものが生じてくる。「厳冬」でも「炎暑」でもなく、穏やかな「小春」ゆえに「憎まるゝ役」も喜ばしいものに感じられてくるわけだ。松本たかしの句に「玉の如き小春日和を授かりし」がある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


November 10112009

 焼き上がる鯛焼きのみなこちら向き

                           小川春休

前の蕎麦屋はたい焼きも販売するが、夏の間はずっと休みである。そしてある日「たい焼き始めました」の看板が出ると、風がぐっと冷たくなったことに気づく。久しぶりに再会するたい焼きは鉄板の上でほかほかと休んでいた。鉄板には、ずらりといっぺんに焼けるタイプと、一尾ずつ焼くタイプがあり、たい焼き通は前者を養殖もの、後者を天然ものと呼び分けているらしい。一尾ずつの焼き型は、くるくるとひっくり返す把手側が口先となっており、掲句の通り、焼き手に向かって焼き上がる格好となる。とはいえ、客の視線で、店先のウインドウに全員口先を並べているという姿を想像するのも、今まさにこちら側に飛び出しそうな勢いがあってなんとも楽しい。ところで、たい焼きはどこから食べるか。このたびわたしはこちら向きにしたたい焼きをまじまじと見つめ、とってもセクシーなくちびるに気づき、思わずぱくっと頭から食べた。そののちたい焼きの心理テストなるものを見つけた。頭派か尻尾派の二者択一と決め込んでいたが、背びれや腹びれから食べる人もいるそうで、さらには半分に割って尻尾から、などと、きわめて少数派の意見まで網羅され、あまりにも無責任な解説ながら大いに笑ってしまった。頭派は行動力はあるがやり方が雑…。おそらくいつも頭から食べているのだと確信した。『銀の泡』(2009)所収。(土肥あき子)




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