季節は冬に向かってうねっていく。一雨ごとに寒さが増してくるのだろう。(哲




2009ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112009

 ここよりは獣道とや帰り花

                           稲畑廣太郎

り花は、小春日和のあたたかさに、春咲く花がほころびることをいう。「狂い咲き」という表現もあるが、これを「帰ってきた花」と見るのは、俳句特有の趣きだろう。先日奥多摩の切り通しを歩いたときに、車道とはずいぶん違うルートをたどることに気づいた。尾根伝いに切り開かれた道は、どこも身幅ほどで険しく、人間が足だけを使って往来していた時代には、獣たちも共用していたと思わせる小暗さと荒々しさがあった。そして山道は車道で唐突に分断され、道路には「動物とびだし注意」の一方的な警告がやけに目についた。掲句では、この先の小径は獣道なのだろうとつぶやいた言葉に、ほつと咲く季節はずれの花が、人と獣の結界をより鮮やかに、心優しくイメージさせる。思いがけない花の姿は、冬の足音をあらためて感じさせ、獣道を通う生きものたちの息づかいがこの奥にあることを予感させる。そしてまた獣の方も、この花を目印に人出没注意、と心得ているようにも思えてくるのだ。同句集には〈小六月猫に欠伸をうつされし〉もあり、こちらは思いきり人間界にくつろぐ獣の姿。これもまた小春日が似合うもののひとつである。『八分の六』(2009)所収。(土肥あき子)


November 16112009

 かたつむり紅葉の中に老いにけり

                           大串 章

見だろうか。実見にせよ想像にせよ、いまの季節に「かたつむり」に着目したセンスの良さ。紅葉との取り合わせが、実に鮮烈だ。俳句に限らず、こうしたセンスを生かせる能力は天性のものと言ってよいだろう。勉強したり努力したりして、獲得できるものではない。ここらへんが、人間の面白さであり味である。紅葉の盛りのなかで、かたつむりがじっとしている。梅雨ごろにはノロマながら這い回っていたのに、いまは死んだように微動だにしていない。かたつむりの生態は知らないけれど、寒さのゆえにじっとしているというよりも、作者は老いたがゆえだと断定する。根拠は無い。無いが、その様子にみずからの老いてゆく姿(このとき作者は五十代後半)を投影して、近未来の自分のありように重ね合わせている。これは頭ででっち上げた詠みではなくて、ごく自然に口をついて出てきたそれである。章句の良さは、情景から思わずも人生訓などを引き出しそうになる寸前で詠みを止めてしまうところだ。最近は、とくにそう感じることが多い。これもまたセンスなり。数多ある紅葉句のうちでも、秀抜な一句である。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


November 15112009

 叱られて次の間へ出る寒さかな

                           各務支考

務支考(かがみしこう)も江戸期の俳人です。とはいうものの、本日の句を読む限りは、当時だけにあった物や言葉が入っているわけではなく、いつの世でも通用する句になっています。叱られることはもちろんつらいことでありますが、片や、叱ることも心の大きな負担になります。相手の反省を求めて頭ごなしにモノを言う、という立場のあり方には、多くの人がそうであるように、私も性格的にどうもなじめません。それでも会社に長く勤めていれば、そのうち管理職になってしまうわけであり、否が応でも部下を叱らなければならないことがあります。さて、本日の句。叱られて、いかにもしょんぼりと帰ってくる人の丸まった背中が見えるようです。そのしょんぼりが、次の部屋の床の冷たさ(あるいは畳でしょうか)に触れて、さらに悲しい震えにつながってきたのでしょう。なにがあったのか知る由もありませんが、だれしも間違いはあるもの。言葉もかけられないほどの意気消沈振りに、できたら帰りに赤提灯にでも、誘ってあげたいと思ってしまいます。『日本名句集成』 (1992・學燈社)所載。(松下育男)




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