仏語。接続法現在形、接続法過去形などと言うから話がややこしくなる。(哲




2009ソスN11ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 28112009

 人々をしぐれよ宿は寒くとも

                           松尾芭蕉

日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え〜そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)


November 27112009

 出雲発最終便の咳の人

                           鈴木鷹夫

間では神無月が出雲では神在月。旧暦十月十一日から十七日まで出雲で開かれる会議に出席された神々は十八日に「神等去出」(からさで)祭に送られて元の国々にお帰りになる。咳をしている最終便の人はひょっとしたら最後に帰る神さまかもしれない。「出雲」という地名がどういう効果をもたらすか、作者は十分に計算し尽くして用いている。詩人としての才を感じさせるのはこういうところだ。「俳句研究年鑑」(2003)所載。(今井 聖)


November 26112009

 白菜のうちがわにいるお母さん

                           小枝恵美子

くなって白菜がおいしい季節になった。二つに裂いた白菜を大きな樽や甕いっぱいに漬けこんでいくのは日本でも韓国でも一家の主婦が中心になってする仕事。日差しのあふれる冬の午後、日に当てるべく白菜を自分のまわりにいっぱいに並べて干しているお母さんがいる。「うちがわ」という表現はそんな場所とともに、白菜を食べたときじわった染み出すうまみに母を感じることも含まれるのかもしれない。白菜や大根を漬けるだけの場所も余裕もない都会とは違って、地方の庭先や納屋の手前では今日もうずたかく積まれた白菜をいくつもいくつも並べてせっせと働いているお母さんがいるに違いない。掲句を読んでおいしい白菜漬が食べたくなった。「白葱がねむいねむいと煮えている」「恋人は美人だけれどブロッコリー」など句集にはおいしそう、かつユニークな冬野菜が並んでいる。『ベイサイド』(2009)所収。(三宅やよい)




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