今度はドバイ・ショック。どうやら今年も暗い歳末になりそうな兆し。(哲




2009ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29112009

 唇で冊子かへすやふゆごもり

                           建部涼袋

週も江戸期の俳句です。冊子は「さうし」とフリガナがあります。つまりは本のことです。この句、読めば誰しも微笑まずにはいられません。ああこういうことってあるな、と古い人ならたいてい思いあたります。コタツにでも入っているのでしょうか。手は布団の中で温められている最中であり、よっぽどのことがない限り、冷たい外気などへはさらしたくありません。でも弱ったことに、読んでいる本のページをめくらなければなりません。さあどうしよう、ということでコタツから出ているもので動くものならなんでも使えということで、急きょ唇が動員されたというわけです。まあ、自分の体ですから、どこをどう使おうと勝手といえば勝手ですが、たしかにだらしない姿です。読んでいる本の内容も、自ずと知れてくるというもので、少なくとも精神を高めるようなものではないようです。最後に置かれた「ふゆごもり」という季語が、なんとも大げさで、さらに笑いを誘います。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 28112009

 人々をしぐれよ宿は寒くとも

                           松尾芭蕉

日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え〜そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)


November 27112009

 出雲発最終便の咳の人

                           鈴木鷹夫

間では神無月が出雲では神在月。旧暦十月十一日から十七日まで出雲で開かれる会議に出席された神々は十八日に「神等去出」(からさで)祭に送られて元の国々にお帰りになる。咳をしている最終便の人はひょっとしたら最後に帰る神さまかもしれない。「出雲」という地名がどういう効果をもたらすか、作者は十分に計算し尽くして用いている。詩人としての才を感じさせるのはこういうところだ。「俳句研究年鑑」(2003)所載。(今井 聖)




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