落葉しきり。辻征夫に「落葉降る天に木立はなけれども」の一句あり。(哲




2009ソスN11ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 30112009

 寄鍋にうるさき女奉行かな

                           湯浅苔巌

に「鍋奉行」と言う。鍋に具を入れる順番から煮え加減や食べ方にいたるまで、まことに細かく指示を出しつづけて「うるさい」。私などは無精だから「どうだっていいじゃん」と大人しくしているが、こういう句を詠む人もまた、鍋にはかなりの自信があるのだろう。しかし上には上がいるというのか、相手が女性ゆえに遠慮しているのか、彼女の指図にいちいちかちんと来ているのだが、何も言えないでいる。流儀が根本的に違うのだ。だからただただ腹立たしく、うるさいのである。と言って、べつに彼女を憎むほどでもないのであって、そのうちに諦めが肝心と悟ってゆく。ちょっとした宴会のちょっとした出来事。俳句でなければ、人はこんなことは書けないし書かない。まこと庶民の文芸である。でも逆に口うるさい鍋奉行がいてくれないと、すぐに鍋の中はぐちゃぐちゃになるし、荒涼としてくる。うるさくても、助かるのである。それこそ逆に、こんな句もある。「寄鍋を仕切るをとこのゐるもよし」(近藤庸美)。こちらは、女性ならではのありがたさを感じている。料理といえば女。それが「をとこ奉行」のおかげで、何もしなくてもよいからだ。今日で十一月もお終い。本格的な鍋料理の季節に入ってゆくが、腕を撫している奉行たちも大勢いることだろう。山田弘子編『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 29112009

 唇で冊子かへすやふゆごもり

                           建部涼袋

週も江戸期の俳句です。冊子は「さうし」とフリガナがあります。つまりは本のことです。この句、読めば誰しも微笑まずにはいられません。ああこういうことってあるな、と古い人ならたいてい思いあたります。コタツにでも入っているのでしょうか。手は布団の中で温められている最中であり、よっぽどのことがない限り、冷たい外気などへはさらしたくありません。でも弱ったことに、読んでいる本のページをめくらなければなりません。さあどうしよう、ということでコタツから出ているもので動くものならなんでも使えということで、急きょ唇が動員されたというわけです。まあ、自分の体ですから、どこをどう使おうと勝手といえば勝手ですが、たしかにだらしない姿です。読んでいる本の内容も、自ずと知れてくるというもので、少なくとも精神を高めるようなものではないようです。最後に置かれた「ふゆごもり」という季語が、なんとも大げさで、さらに笑いを誘います。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 28112009

 人々をしぐれよ宿は寒くとも

                           松尾芭蕉

日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え〜そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)




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