cq句

December 11122009

 まつくろに枯れて何かの実なりけり

                           高田正子

七の語句「何かの」の力の抜き加減。「なりけり」の流し方。「枯れて」は状態の知的把握だし季語だから伝統派の立場では、句の大前提のようなものだ。季語に続いている句の後半は力が抜けているので「まつくろ」だけがこの句の眼目。上五だけが強調されることで、句は成功している。副詞が句の中心にすわる珍しい例だ。ところで、「なりけり」は一応断定ということになるのだろうが、それほどの強調的意味を持たないので仮に取ってしまうと「まつくろに枯れて何かの実」。このままで自由律の句になりそうだが、自由律なら「何かの実まつくろに枯れ」くらいにするかもしれない。でもそう考えると「なりけり」の効果が確認できる。やはりあった方がいい。リズム中心の「なりけり」が素朴な眼差しをうしろから支えている。「角川俳句年鑑」(2010年版)所載。(今井 聖)


March 0332015

 あたたかにつむりを寄せて女の子

                           高田正子

性の呼び方を定義することはむずかしいが、女の子とは0歳〜10歳あたり、少女期の前のひと桁の年齢がふさわしい。過ぎた日にはたしかに私自身も小さな女の子であったはずだが、今となってはその語感には、過去というより、どこか曖昧で不思議な感触を抱く。放出する少年のエネルギーに対し、少女たちは光りを内包するように輝いている。女の子が集まり、頭を寄せて、ひそひそと小声でささやき合う姿は、まるで、妖精たちがきれいな羽を閉じてなにごとかを相談しているようにも思われる。ここまで書いて、ボッティチェリの描く「春」とつながっていることに気づいた。無垢な女の子こそ、春の到来にもっとも似つかわしいものなのだ。本日は桃の節句。あちらこちらの雛壇の前で、かわいらしいつむりが寄せられ、春を祝福する図が描かれていることだろう。〈雛壇に小さき箒ちりとりと〉〈ほほといふ口して三人官女かな〉〈雛さまの百年風を聴くおかほ〉『青麗』(2014)所収。(土肥あき子)




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