今日、アメフト大学決勝戦甲子園ボウル。関大対法政。写真は東大明治。(哲




2009ソスN12ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 13122009

 かがみ磨ぎ寺町のぞくおちばかな

                           建部巣兆

つだったか、だいぶ昔のとあるいちにちに、タクシーに乗ってぼんやりと窓から外を見ていたことがあります。まだ30代の若い頃で、事情があって住む家をさがしていました。松戸駅からほど近い小路を、ゆっくりと曲がろうとする車の中で、一瞬天地が激しく傾いたような感覚を持ちました。車が角を曲がる瞬間に、確かに大地が斜めに競りあがり、商店が空中に高く浮きあがったのです。車内にしがみつくようにして瞬間的に目を閉じ、そのあとで落ち着いて目を凝らせば、曲がり角のちょうど曲がり目のところに、大きな鏡が置いてありました。鏡、という言葉を見ると、あのころの不安定な心持を思い出します。今日の句は、鏡磨ぎという職業の人が、落ち葉の積もる寺町へ入っていったという、ただそれだけのことを詠んでいます。昔は鏡も金属でできていましたから、刀や包丁のように、表面を磨ぐ職業があったのでしょう。「かがみ」と「寺」のイメージが支えあって、落ち着いた美しい句になっています。落ち葉が敷き詰められている地面を手で払えば、その下には、深く空を映した鏡が張られている。そんな印象を持たせてくれる句です。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


December 12122009

 耳剥ぎに来る風のあり虎落笛

                           加古宗也

これを書いている間もずっと、ヒューという音がし続けている。現在仮住まい中のマンションの五階、南に向いた振り分けの部屋のうち東側の六畳間、他の部屋ではこの音はしない。いろいろ試してみた。サッシを少し開けると、太めに音色が変わり、思いきり開けると音は止む。玄関を始め、家のどこかを開けるとこれまた音は止む。いくらそ〜っとサッシを閉めても、風はうっかり見逃すということはなく、この部屋のサッシのわずかな隙間に気づいて、もの悲しげな音をたて続けるのだ。昼は別の部屋の窓を少し開けておけば音はしないが、寒くなってきたので夜はそうはいかない。目を閉じて聞いていると、虎落笛(もがりぶえ)のようでもある、やや単調だけれど。それにしても、掲出句の、剥(は)ぐ、は強烈だ。「虎」の字とも呼び合って、まさに真冬の烈風を思わせる。それこそ窓をうっかり開けたら、突然恐ろしいものが飛び込んできそうだが、吹き荒れる木枯を聞き恐いものを想像しながら、ぬくぬくと布団をかぶっているのは、これまたちょっと幸せでもある。原句の「剥」は正字。「俳句歳時記 第四版 冬」(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


December 11122009

 まつくろに枯れて何かの実なりけり

                           高田正子

七の語句「何かの」の力の抜き加減。「なりけり」の流し方。「枯れて」は状態の知的把握だし季語だから伝統派の立場では、句の大前提のようなものだ。季語に続いている句の後半は力が抜けているので「まつくろ」だけがこの句の眼目。上五だけが強調されることで、句は成功している。副詞が句の中心にすわる珍しい例だ。ところで、「なりけり」は一応断定ということになるのだろうが、それほどの強調的意味を持たないので仮に取ってしまうと「まつくろに枯れて何かの実」。このままで自由律の句になりそうだが、自由律なら「何かの実まつくろに枯れ」くらいにするかもしれない。でもそう考えると「なりけり」の効果が確認できる。やはりあった方がいい。リズム中心の「なりけり」が素朴な眼差しをうしろから支えている。「角川俳句年鑑」(2010年版)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます