二時間飲み放題の忘年会形式がすっかり定着。せせこましい世の中よ(哲




2009ソスN12ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 17122009

 毛糸編む母の周りに集まりぬ

                           後閑達雄

車の座席や病院の待合室で編みかけのものを袋から取り出してせっせと編み針を動かす姿をこの頃はとんと見かけなくなってしまった。今迄毛糸編みに見向きもしなかった女の子が編み針と毛糸を購入してマフラーを編み始めたらボーイフレンドが出来たものと相場が決まっていたが、この頃はどうなのだろう。昔のお母さんは古くなったチョッキやセーターをほどいた毛糸を蒸気でのばし、違うものに再生させていた。せっせと編み針を動かすお母さんのまわりに子供たちが集まって、学校のこと、友達のことなどしきりに話しかける。お母さんはふんふんと頷きながら手は休ませない。手編みのせーターもあまり着ることのなくなった昨今、このような牧歌的風景は少なくなったことだろう。だからこそ昔はありふれていたこんな光景が懐かしい。ゆったり流れる冬の夜の時間。母を囲んで丸く集まった家族の温もりが毛糸の暖かさをともに伝わってくる句である。『卵』(2009)所収。(三宅やよい)


December 16122009

 湯豆腐の小踊りするや夜の酌

                           玉村豊男

頃は忘年会の連続で、にぎやかな酒にも海山のご馳走にも食傷気味か? そんな夜には、家でそっとあっさりした湯豆腐でもゆっくりつつきたい――そんな御仁が多いかもしれない。湯豆腐は手間がかからなくて温まるうれしい鍋料理。豆腐が煮えてきて鍋の表面に浮いてくる寸前を掬って食べる、それがいちばんおいしいと言われる。「小踊りする」のだから、まさに掬って食べるタイミングを言っている。表面で踊り狂うようになってしまっては、もはやいけません。掲出句は食べるタイミングだけ言っているのではなく、湯豆腐を囲んでいる面々の話題も楽しくはずんでいる様子まで感じさせてくれる。「小踊り」で決まった句である。古くは「酌は髱(たぼ)」と言われたけれど、ご婦人に限らず誰の酌であるにせよ、この酒席が盛りあがっていることは、湯豆腐の「小踊り」からも推察される。酒席はつねにそうでありたいものである。万太郎の名句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」にくらべて、親しみとユーモアがほのぼのと感じられる。湯豆腐の句は数あるようだが、意外とそうでもないようだ。三橋敏雄に「脆き湯豆腐人工衛星など語るな」がある。なるほど。豊男には他に「天の寒地に堕ちて白き柱かな」がある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)


December 15122009

 燃やすもの無くなつて来し焚火かな

                           森加名恵

う都会では楽しむことも叶わなくなった焚火だが、わたしの幼い頃は庭で不要品を燃やすことも年末行事のひとつだった。子供はおねしょをするからと、じっと焚火を見つめているだけだったが、青々と澄む冬空へ溶けていくような煙や、思い思いの方向に舞う火の粉など、かつての体験は感触や匂いを伴ってよみがえってくる。掲句もおそらく不要品や落葉などを燃やすための焚火だったのだろうが、そろそろおしまいというところで、なんとなく物足りない気持ちが頭をもたげているのだろう。本来なら掃除といえば、完了というのは喜ばしい限りなのだが、ここには火が消えてしまうというさみしさが生まれている。獣たちが怖れる炎を、いつしか利用するようになり、人間は文明を持ち得たのだという。焚火という火そのものの形を目にしたことで、何千本もの手から手へ伝えられてきた人間と火の関係を作者は見つめ、名残惜しんでいるのだろう。〈かなかなと我が名呼びつつ暮れにけり〉〈ふる里は母居るところ日向ぼこ〉『家族』(2009)所収。(土肥あき子)




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