有馬記念に行きたしと思えども、現体力では中山はあまりに遠し。(哲




2009ソスN12ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 27122009

 ふゆの夜や針うしなうておそろしき

                           桜井梅室

リスマスとお正月の間に位置する数日は、むかしはただ、お正月まではあと何日と数えられるだけの日々でした。しかし、町にイブのイルミネーションが輝きだした昨今は、二つのお祝い事の中間にある、中途半端に晴れやかな、両側を見上げる谷底のような日々になりました。そんな派手やかな出来事からは遠く、今日の句は江戸後期の俳人の、地味でしっとりとした味わいのある作品です。おそろしいのはもちろん、「針うしなうて」のところ。「針」の一語が、おのずと皮膚を破って内側へ入り込む痛さを連想させますし、「うしなう」という行為が、自身の感覚ではコントロールできないものに対する恐怖を表しているようです。昔、母親が繕い物をしているときには、大きな針山がいつもそばに置いてあって、たくさんの針がそこに刺さっていました。それを見るたびに、子供心にも、あれだけ針があるのだから、1本や2本なくなってもだれにもわからないのだろうなと、妙にいやな思いをしたものです。ということは、失われた針にいつ足裏を踏み抜くかも知れず、針山を見たあとしばらくは、おそるおそる畳の上を歩いていたように思い出します。冬の夜の心細さと、皮膚に感じる痛さが相俟って、たしかにおそろしい句になっています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


December 26122009

 冬木立おとぎの国へ続く道

                           松永静子

しぶりに聞いた言葉だと思った、おとぎの国。ちらりと「ナルニア国物語」の衣装箪笥の中の雪の森が浮かんだりもしたが、ナルニア国は、おとぎの国というにはちょっとハードすぎるかもしれない。枯木立、というと冬ざれた寂寥感が先立つけれど、冬木立、という言葉にはどこかやわらかな響きがあり、うっすら雪に覆われながら明るさの残る木々が思われる。そんな木立の中を歩きながら、冬の匂いを感じた時、ふと見知らぬ何かに見つめられているような気がしたのかもしれない。未知、に通ずる道の余韻が、今年のしめくくりにふさわしいなと思ったこの句は、「船団」第八十四号(2009)の中の、作品五十句の中にあった。公私ともに変化の大きかった今年を思いながら、この句の少し後の〈叱られて来たはずだった春の川〉の省略の効いた表現に、郷愁を感じると共に待春の思いを強くした。(今井肖子)


December 25122009

 点滴の滴々新年おめでたう

                           川崎展宏

宏さんが亡くなられた。僕は同じ加藤楸邨門下だったので、展宏さんに関する思い出はたくさんあるが、その中のひとつ。展宏さんが楸邨宅を訪ねた折、展宏さんが「僕はどうせ孫弟子ですから」と楸邨の前で少しいじけて見せた。展宏さんは森澄雄の薫陶を受け「杉」誌創刊以来中核の存在であったため、そのことを意識しての言葉だった。それに対し楸邨は「そんなことはありません。直弟子です」と笑って応じたという。酒豪の展宏さんは酔うと必ずこの話をされた。そういえば楸邨に川崎展宏君という前書のある句で「洋梨はうまし芯までありがたう」がある。「おめでたう」と「ありがたう」は呼応している。晩年の病床でのこの句の余裕と呼吸。やはり展宏さんはまぎれもない楸邨の直弟子であった。「角川俳句年鑑」(2009)所載。(今井 聖)




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