千歳烏山(世田谷区)の街が面白い。昔ながらの雰囲気の店が多い。(哲




2009ソスN12ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 28122009

 老一日ただうろうろと師走街

                           田村松江

い頃から、雑踏を「ただうろうろと」するのが好きだった。雑踏など望むべくもない山奥で育ったせいかもしれない。とくに師走の街の慌ただしい活気のある通りが良い。普段とは違い、人の流れがスムーズではないからだ。あちこちで人にぶつかりそうになっては身を翻し、それぞれに工夫をこらした商店を覗いてまわる。べつに買いたいものがあるわけじゃないが、こんなところにこんな店があったのかなどと、日頃は見過ごしている情景にぶつかると、なんとなく嬉しくなったりもする。他愛のない楽しみだが、それが腰を悪くした今年は、そうぶらぶらともできないのが悲しい。ぶらぶらと歩いているようでも、内心では転ばないようにと緊張しているのが老人である。のろのろ歩くのも、ひとつにはそんな心配があるからだ。作者は年用意のために街に出かけたのだろうが、帰ってきてみれば、一日中ただうろうろとしただけだったという思いが強く残った。せっかく出かけたというのに、用事の半分くらいしかこなせなかったのかもしれない。とにかく肝心の用事をすませるつもりが、若い時のようには運ばなかったのだ。なんということもない句ではあるけれど、私のような年代になると、とてもよくわかるし、つくづくと身にしみてくる。さて、本日もまた「うろうろ」してきますかな。『冬麗』(2009)所収。(清水哲男)


December 27122009

 ふゆの夜や針うしなうておそろしき

                           桜井梅室

リスマスとお正月の間に位置する数日は、むかしはただ、お正月まではあと何日と数えられるだけの日々でした。しかし、町にイブのイルミネーションが輝きだした昨今は、二つのお祝い事の中間にある、中途半端に晴れやかな、両側を見上げる谷底のような日々になりました。そんな派手やかな出来事からは遠く、今日の句は江戸後期の俳人の、地味でしっとりとした味わいのある作品です。おそろしいのはもちろん、「針うしなうて」のところ。「針」の一語が、おのずと皮膚を破って内側へ入り込む痛さを連想させますし、「うしなう」という行為が、自身の感覚ではコントロールできないものに対する恐怖を表しているようです。昔、母親が繕い物をしているときには、大きな針山がいつもそばに置いてあって、たくさんの針がそこに刺さっていました。それを見るたびに、子供心にも、あれだけ針があるのだから、1本や2本なくなってもだれにもわからないのだろうなと、妙にいやな思いをしたものです。ということは、失われた針にいつ足裏を踏み抜くかも知れず、針山を見たあとしばらくは、おそるおそる畳の上を歩いていたように思い出します。冬の夜の心細さと、皮膚に感じる痛さが相俟って、たしかにおそろしい句になっています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


December 26122009

 冬木立おとぎの国へ続く道

                           松永静子

しぶりに聞いた言葉だと思った、おとぎの国。ちらりと「ナルニア国物語」の衣装箪笥の中の雪の森が浮かんだりもしたが、ナルニア国は、おとぎの国というにはちょっとハードすぎるかもしれない。枯木立、というと冬ざれた寂寥感が先立つけれど、冬木立、という言葉にはどこかやわらかな響きがあり、うっすら雪に覆われながら明るさの残る木々が思われる。そんな木立の中を歩きながら、冬の匂いを感じた時、ふと見知らぬ何かに見つめられているような気がしたのかもしれない。未知、に通ずる道の余韻が、今年のしめくくりにふさわしいなと思ったこの句は、「船団」第八十四号(2009)の中の、作品五十句の中にあった。公私ともに変化の大きかった今年を思いながら、この句の少し後の〈叱られて来たはずだった春の川〉の省略の効いた表現に、郷愁を感じると共に待春の思いを強くした。(今井肖子)




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