Nj句

January 0412010

 獅子頭ぬぎてはにかむ美青年

                           片山澄子

子舞の句には、獅子頭をぬいだときのものが結構ある。舞そのものを詠んだ句は非常に少ない。つまり獅子舞は鑑賞する芸ではないのかもしれない。しかし皮肉なことに、舞う人の多くはそう思ってはいない。だから「はにかむ」のだ。学生時代の終りごろに、よく京都・千本中立売の安酒場に出入りした。このあたりは、かつては水上勉の『五番町夕霧楼』でも知られる西陣界隈の大きな色町・盛り場だった。私が通ったのは売春禁止法が施行された少しあとだったので、街は衰退期に入っていたのだけれど、それでもまだ色濃く名残りは残っていて、行く度にドキドキするような雰囲気があった。獅子舞の青年と知りあったのは、そんな安酒場の一つだった。句にあるような美青年ではなかったけれど、この時期になると獅子頭を抱えて街を流していて、ときどき一服するために店に入ってくるのだった。カウンターの奥にそっと商売道具を置き、コップ酒をあおる彼の姿は、それこそドキドキするほど格好が良かった。いつしか口をきくようになり、ほとんど同じ年頃だったが、彼の全国放浪の話を聞くにつけ「大人だなあ」と感心することばかり。句の青年は由緒正しい獅子舞の伝統を踏まえた芸人の卵であることがうかがわれ、微笑ましい限りだけれど、彼のほうは芸人というよりもチンピラヤクザに近かったのであって、芸もへったくれもなかったのではなかろうか。でも、そんな裏街道を行く彼の生き方に共感を覚え、彼が好きだったのは、あながち若年のゆえだけとは言えない何かがあったからだと思う。その後の私が社会人としてのまっとうな職業を外れた背景には、彼に象徴される裏通り特有の人生観にも影響されたところがあったような気がする。もうすっかり名前も忘れてしまったけれど、彼のほうはその後どう生きただろうか。新年早々掲句を読んで、そんなことをほろ苦く思い出したのだった。最近は、飲み屋街で獅子舞を見かけることもなくなった。もう商売としては時代遅れなのだ。往時茫々である。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


January 1112010

 無造作に借りて巧みに羽根をつく

                           大串 章

うそう、ときどきいましたね、こういう「おばさん」が。いや「おじさん」かもしれないけれど、なんとなくもっさりした感じの大人に羽子板を貸してみたら、いやはや上手いのなんのって。凧揚げにもいたし、独楽回しにもいた。昔とった杵柄だ。「巧みに」つく人の風貌は描かれていないが、それは「無造作に」で言い尽くされている。「よし」と張り切るのでもなく、「よく見てなさい」とコーチじみたことを言うわけでもない。ごく当たり前の涼しい顔をして、難しいポイントからでも、ちゃんと相手の打ちやすいポイントへと羽根を打ち上げてくれるのだ。そして、少し照れくさそうな顔をしてさっさと引き下がる。格好良いとは、こういうことでしょう。それにしても、昨今は羽根つきする子供らの姿を見かけなくなった。他にもっと面白い遊びがあるからという説もあるが、その前に、遊ぶ場所がなくなったことが大きいと思う。道路は車に占領され、マンション住まいには庭もない。近所の学校だって、校庭は閉鎖されている。今日は成人の日。振袖姿のお嬢さんたちのなかで、正月の羽根つきを楽しんだことのある人は、ほんのわずかでしかないだろう。おそらくは皆無に近い。したがってこれからの時代には、もう掲句のような場面を詠み込んだ句は出現してこない理屈となる。『山河』(2010)所収。(清水哲男)


January 1812010

 木葉髪馬鹿は死ななきや直らねえ

                           金子兜太

きだなあ、この句。若い頃には抜け毛など気にもかけないが、歳を重ねるうちに自然に気になるようになる。抜け毛にもだんだん若い日の勢いがなくなってくるので、まさに落ちてきた木の葉のごとしだ。見つめながら「オレもトシ取ったんだなあ」と嘆息の一つも漏れてこようというもの。しかし、この嘆息の落とし所は人さまざまである。草田男のように「木の葉髪文芸永く欺きぬ」と嘆息を深める人もいれば、掲句のようにそれを「ま、しょうがねえか」と磊落に突き放す人もいる。生来の気質の違いも大きかろうが、根底には長い間に培ってきた人生に対する態度の差のほうが大きいと思う。掲句を読んで「いかにも兜太らしいや」と微笑するのは簡単だが、その「兜太らしさ」を一般読者に認知させるまでの困難を、クリエーターならわかるはずである。嘆息の途中に、昔の子供なら誰でも知っていた廣澤虎造『石松代参』の名科白を無造作に放り込むなんてことは、やはり相当の大人でないとできることではない。この無技巧の技巧もまた、人生への向き合い方に拠っているだろう。金子兜太、九十歳。ますますの快進撃を。ああそして、久しぶりに虎造の名調子を聴きたくなってきた。例の「スシ食いねえ…」の件りである。「俳句界」(2009年1月号)所載。(清水哲男)


January 2512010

 年老いて火を焚いてをるひとりかな

                           橋上 暁

のダイオキシン騒動以後、住宅地などでの焚火はまったく見られなくなってしまった。昔は朝方や夕暮れ近くには、あちこちの民家の庭先から、落葉やゴミを燃やす細い煙が上がっていたものだった。近づくと、特有のいい匂いがした。その時代の句だろう。焚火をしている人は他人とも解釈できるけれど、私は作者当人と解しておきたい。つまり「年老いて」を実感としたほうが、より孤独の相が深まるからである。この焚火は、盛大なものじゃない。火の勢いも強くはない。ぼそぼそと、少しずつ紙くずなんかを燃やしている。燃やしながらチロチロとした炎や燃えかすを見ているうちに、脈絡もなくさまざまな思いがわいてくる。こうした焚火は遊び気分とは縁のない一種のルーティン・ワークだから、あまり弾むような気持ちは起きてこない。「ああ、オレも年をとったなあ」などと、気分はどうしても内向的になる。呟きのようにわいてくるこうした気分を反芻していると、不意に人間はしょせん「ひとり」なんだという、それこそ実感の穴に転げ落ちてゆく。この「一人」は一人暮らしのそれであってもよいのだが、むしろ家族と同居しているなかでの「ひとり」感としたほうが味わい深い。たそがれどき、むらさきの煙を上げている焚火を見つめながら、このような孤独感に胸を塞がれた人たちも多かったろう。焚火の時間はまた内省の時間でもあったのだ。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


February 0122010

 海豹のやうな溜息二月なり

                           渡辺乃梨子

月といえば、間近の春を待つ心情を詠んだ句の多いなかで、この句は違う。あわただしく動き回っているうちに、ふと気づけば、もう二月になってしまったのかという焦燥感のあらわれた句だ。だからついて出る溜息もかそけきそれではなくて、さながら「海豹(あざらし)」の鳴き声のように荒々しいものになったというのである。私も父の緊急入院以来、こんな溜息を何度かもらした。もらした瞬間に、喉の奥がごおっという感じで鳴るのである。経過は順調で週末には退院できそうだが、これを幸いと言うにはその後に問題が山積しすぎているからだ。長生きも考えものだな。などと、親不孝な想念も思わずわいてきてしまう。どなたでもそうだろうが、かといって急に介護一辺倒の生活に切り替えるわけにもいかず、しかし現実は容赦なく進行するばかりなのだから、本音のところでははただうろうろおろおろするばかり。我ながら情けないとは思うけれど、出るのは海豹のような溜息ばかりなりである。そして、四日は早や立春。どんな春になるのかなあ。俳誌「梟」(2009年3月号)所載。(清水哲男)


February 0822010

 春うつらくすりの妻の名で呼ばれ

                           的野 雄

院では患者当人ではなくても、付き添いや見舞い客などの人を患者のフルネームで呼ぶ場合が多い。今回の父の入院で、私も何度も父の名で呼びかけられた。慣れてしまえば何ということもないのだろうが、なんだか妙な心持ちになってしまう。句の作者は、妻の薬を受け取りにきたのだろう。だいぶ待たされるので、つい「うつら」としてしまった。で、ようやく窓口から呼ばれたときには妻の名前なものだから、「うつら」の頭ではすぐには反応できない。呼ばれたような気もするのだが……と逡巡するうちに、今度ははっきりと妻のフルネームが聞こえて、あわてて立ち上がったのである。微苦笑を誘われる句だけれど、私も作者と似た環境にあるので、微苦笑とともに自然に溜息も出てくる。句集には「主夫」という言葉が何度も出てくるから、奥様はかなり長患いのようだ。同じ句集に「想定外妻に梨剥く晩年など」があり、また「逃亡めく主夫に正月と言うべしや」がある。お大切に。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)


February 1522010

 さわやかに我なきあとの歩道かな

                           清水哲男

節外れの句で失礼。「さわやか(爽やか)」は秋の季語。今と違ってこのページをひとりでやっていたときに、毎年の誕生日には、自分の句のことを書いていた。自句自解なんて、大それた気持ちからではない。言うならば、自己紹介みたいな位置づけだった。今年はたまたま今日に当番が回ってきたので、同じ気持ちで……。自分の死後のことを漠然と思うことが、たまにある。べつに突き詰めた思いではないのだけれど、死は自分が物質に帰ることなのだから、実にあっけらかんとした現象だ。そこに残る当人の感情なんてあるわけはないし、すべては無と化してしまう。その無化を「さわやか」と詠んだつもりなのだが、こう詠むことは、どこかにまだ無化する自分に抗いたいという未練も含まれているようで、句そのものにはまだ覚悟の定まらない自分が明滅しているようである。この句を同人詩誌「小酒館」に載せたとき、辻征夫が「辞世の句ができたじゃん」と言った。ならば「オレは秋に死ぬ運命だな」と応えたのだったが、その辻が先に逝ってもう十年を越す歳月が流れてしまった。この初夏、余白の仲間を中心に、辻の愛した町・浅草で偲ぶ会がもたれることになっている。『打つや太鼓』(書肆山田・2003)所収。(清水哲男)


February 2222010

 ふるさとの味噌焼にのせ蕗の薹

                           武原はん女

田汀史さんから送っていただいた『汀史雑文集』(2010)は、味わい深い一冊である。地元徳島への愛情が随所に滲み出ている。そのなかに、徳島出身の地唄舞の名手であった武原はん(俳号・はん女)について書かれた短文がある(「おはん恋しや」)。掲句はそのなかで引かれている句であるが、彼女は虚子直門で多くの秀句を残した。「焼味噌」がどういうものなのか、私は知らないけれど、阿波の人なら知らない人はいないほどの名物らしい。汀史さんによれば「赤子のてのひら程の、素焼の器に生味噌を入れて炭火で焼いた」ものだという。想像するだに酒のつまみに良く合いそうだ。作者は長いこと「ふるさと」を離れ暮らしているのだが、あるとき故郷から味噌焼が送られて来、その懐かしい味をより楽しむために、早春の香り「蕗の薹(ふきのとう)」を添えたというのである。いかにも美味しそうであり、それ以上に、句は望郷の念をさりげなくも深く表現していて見事だ。「早春の季節感と共に、望郷の念たちのぼるごとき秀品」と、汀史さんは書いている。ひるがえって、私が育った地元には何か名物があるかと考えてみたが、何もない。山口県の文字通りの寒村で、いまは一応萩市の一角ということにはなっているけれど、バスの便だって一日三回くらいしかないほどなのだから、昔の状況は推して知るべし。ついでに言えば民謡もない。したがって、食べ物を前に望郷の念を抱くこともできない。だからこそなのだろう。こういう句にとても惹かれてしまうのは。(清水哲男)


March 0132010

 物置の自転車出して北の春

                           高橋実千代

人の斎藤悦子さんから『かんちゃんと俳句の仲間たち』(2010・自然食通信社)というご本を頂戴した。学生時代の友人が集まって、十年ほどつづけているインターネット句会のアンソロジーだ。「かんちゃん」は掲句の作者の学生時代からの愛称で、昨年急逝されたことから、残ったメンバーが追悼の意も込めて編んだ一本である。俳句の専門家がいるわけでもなく、志す人もいるわけじゃない。とかく疎遠になりがちな若き日の仲間たちと、俳句をいわばツールとして交流しようという発想からはじまったグループなのだ。あえて言うならば、交流が主で、俳句は従。しかし元来俳句の座にはそういう側面があるのであり、そこがまた俳句という短い詩型ゆえの利点でもあるだろう。句意は明瞭すぎるほどに明瞭だ。ただそうかといって、この句に表現された春到来の喜びの本当のところは、作者のような北国(北海道)出身者でなければわかるまい。東京のように真冬でも自転車に乗れる環境に暮らしていると、その他の季節の変化にも劇的に対応することは、まずありえない。俳句的にはまことに貧弱な土地柄というのが、東京などの大都会なのだ。そういうことを合わせ思いながら読むと、この句の素朴な詠み方に内包されている技術を超えた(あるいはそんなことに頓着しない)句作の楽しさが感じられてくる。良い本を読ませていただいた。(清水哲男)


March 0832010

 子猫かなパルテノンなる陽だまりに

                           下山田禮子

外詠は難しい。定住者ならばまだしも、観光の旅などの短期間での見聞は、現場での興奮もあってなかなかその地を客観化できないからだ。写真についても、同じことが言えるだろう。作者に同行していない読者には、何を詠んでいるのか、そのポイントがつかみにくい作品が多い。そのあたり、国内の句ならば、季語を通じることにより、知らない土地のことでもかなりの程度の理解は可能だ。そこにツールとしての季語の利点がある。掲句の季語は「子猫」だけれど、このように日本でも身近な動物が詠まれると、異国の光景もぐっと親しく感じられてくる。悠久の趣を持つパルテノン神殿とまだ足元のおぼつかない子猫との取り合わせには、生きとし生けるものとしての私たちを微笑させると同時に、どこかにふっと無常観を誘い出されるようなところがある。時間を超越した宮殿と有限の時間しか生きられないこの子猫、そして作者も私たちも……。俳句の装置がそう思わせるわけだが、彼地でのこの光景は珍しいものではない。ギリシアはいわば犬猫天国ゆえ、法隆寺の庭に猫がいるのとはわけが違い、これは極めてありふれた光景なのであり、ありふれていないのはこれを句として切り取った作者の目であることに留意して読む必要はある。私がアテネに行ったのは、もう三十数年も前のこと。ほとんど変わらないのだろうな、あの頃と。『風の円柱』(2009)所収。(清水哲男)


March 1532010

 春の夢気の違はぬがうらめしい

                           小西来山

山は、元禄期大阪の代表的俳人。芭蕉より十歳年下だが、交流の記録はないそうだ。上島鬼貫とは親しかった。来山というと、たいてい掲句が引用されるほど有名だが、一見川柳と見紛うばかりの口語調にもあらわれているように、俗を恐れぬ人であった。前書きに「淨しゅん童子、早春世をさりしに」とあり、五十九歳にして得た後妻との子に死なれたときの感慨である。この句を川柳と分かつポイントは、「春の夢」を季語としたところだ。「春の夢」はそれこそ俗に、人生一場の夢などと人の世のはかなさに通じる比喩として伝えられてきている。その意味概念は川柳でも俳句でも同じことだ。だが、川柳とは違い、季語「春の夢」はその夢の中身にはさして注目はしないのである。どんなに華やかな内容だったか、どんな艶なるシーンだったのかなどという詮索は無用とする気味が強い。この季語で大切なのは、目覚めたあとの現実との落差のありようなのであって、その落差をどう詠むかがいわば腕の見せ所となる。子を亡くした父親が、いかにプロの俳人だからとはいえ、文語調で澄ましかえって詠んだのでは、おのれの真実は伝わらない。口語調だからこそ、手放しで哭きたいほどの悲しみが伝えられる。つまり、彼は季語としての「春の夢」の機能を十全に活用し、「落差」に焦点をあてているわけだ。間もなくして来山も没したが、辞世は「来山は生まれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし」であったという。荘司賢太郎「京扇堂」所載。(清水哲男)


March 2232010

 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有り

                           宝井其角

角が江戸に出てきたばかりの芭蕉に入門したのは、十四歳のときだったという。べつに早熟というには当たらないけれど、下町生まれの其角が、なぜ芭蕉を選んだのかは気にかかる。掲句は二十歳ころの作だが、もはや十分に世をすねている。医者だった父親の影響で医学や儒学を学び、俳諧の手ほどきも父に受けた。が、医者を開業することもなく、掲句のとおり、オレはちっぽけなな家に住む野巫(やぶ)の子で、風雅に遊ぶばかりだから、人間サマ相手ではなく「月花」の診察をしているようなものさと嘯(うそぶ)いている。この人生態度は生涯変わらず、芭蕉の目指したいわば純正な詩情にはほど遠い世界だ。なのに、なぜ其角は芭蕉を師と仰いだのだろうか。芭蕉の側から其角を見れば、こんな風狂児もまた面白しですむ話かもしれないが、逆に其角が芭蕉に何を求めたのかは判然としない。今日でも其角に人気があるのは、俗を恐れず俗にまみれ、しかも「てやんでえ」と世間に背を向けた近代的な孤立を思わせるスタイルからだろう。彼が芭蕉から学んだことははたして何だったのか。「日の春をさすがに鶴の歩みかな」と、この「鶴」を芭蕉に見たのかしらん。それにしても、私には謎だと言っておくしかないのである。『桃青門弟独吟二十歌仙』(1680)所載。(清水哲男)


March 2932010

 吹越や伐り出されたる柩の木

                           請関くにとし

語として使われている「吹越」は群馬県北部地方の方言で、「風花」のことだそうだ。風花は冬の季語とされるが、どうかするとこの時期にも、どこからか風に乗ってきた雪がちらつくことがある。小津安二郎だったか木下惠介だったかの映画にも、火葬場近くでのそんなシーンがあった。「吹越」は「ふっこし」と読ませるが、なかなかに趣きのある言葉だ。赤城などの山々を吹き越してくる雪片の意だろうか。それとも遠く新潟など越の国から吹き込んでくることからの命名だろうか。どちらにしても、群馬ならではと思わせる言葉である。ヒノキやキリなど、柩にするための木々が伐採されている情景のなかに、ちらちらと舞いはじめた吹越。伐られたばかりの木々にはまだ生気がみなぎっているけれど、やがてこれらの木々がそれぞれに死者を覆い火中に投ぜられることを思えば、折からの吹越は天からの哀惜の念のようにも感じられる……。切なくも美しい詠みぶりである。掲句は、文學の森が募集した第二回「全国方言俳句」の上位入選作。「俳句界」(2010年3月号)所載。(清水哲男)


April 0542010

 花疲泣く子の電車また動く

                           中村汀女

週の土曜日は、井の頭公園で花見。よく晴れたこともあって、予想以上の猛烈な人出だった。道路も大渋滞して、バスもいつもなら数分で行ける距離を三十分以上はかかる始末。花見の後の飲み会に入る前に、気分はもうぐったり。花見に疲れたのではなく、人ごみにすっかり疲れてしまったのだった。人に酔うとは、このことだろう。季語の「花疲れ」は、そういうこともひっくるめて使うようだ。掲句で、作者は花見帰りの電車のなかにいる。くたびれた身には、車内の幼児の泣き声が普段よりもずっと鬱陶しく聞こえる。そのうちに、だんだん腹立たしくなってくる。早く降りてくれないかな。停車するたびに期待するのだが、今度もまた、泣きわめく声を乗せたまま、無情にも電車は動きはじめた。がっかりである。そんな気持ちに、電車も心無しかいつもよりスピードが遅く感じられる。さりげない詠みぶりだが、市井の詩人・汀女の面目躍如といったところだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1242010

 きれいねと知らぬ人とのさくらかな

                           相生葉留実

見に出かけての句ではないだろう。歩いていてたまたま遭遇した「さくら」の見事さに、つい近くにいた見知らぬ人に呼びかけたのである。同意を求められた人も、微笑してうなずき返している様子が目に浮かぶ。何の屈託もない素直な中身と詠みぶりが、それだけにかえって読後の印象を鮮明にしてくれる。花を愛でた句は枚挙にいとまがないけれど、アングル的にはけっこう意表をついた句だと思う。詩から俳句に転じた人は多いが、作者もそのひとりだ。京都に住み、第一詩集『日常語の稽古』(思潮社・1971)以降良質な作品を書きつづけていて、私も愛読していたが、いつの間にか俳句の道に進んでいた。そのことを知ったときにはかなり驚きもしたけれど、今回まとめられた句集を読むと、とかく思念や情趣をこねくりまわしがちな「現代詩」の世界と分かれた理由も納得できたような気がする。いわば資質的に俳句に似合っていた人とでも言うべきか。熱心な詩の「稽古」のおかげで、ついに自分にかなった言語世界を発見できたとも……。ただ惜しむらくは、作者が昨年一月に子宮癌で亡くなったことだ。さくらの季節に出た自分の句集を、生きて見ることはなかった。俳人としては、これからというときだったのに……。合掌。『海へ帰る』(2010・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 1942010

 菜の花の中や手に持つ獅子頭

                           松窓乙二

者の乙二(おつじ)は、江戸時代後期の東北の俳人。この俳人とその句のことは、矢島渚男『俳句の明日へ3』(紅書房・2002)で、はじめて知った。いちめんの菜の花のなかを、獅子舞の男が通ってゆく。獅子舞といえば都会では正月のものと決まっていたが、渚男が書いているように「陽春の候、春祭に東北あたりまでやってきたものか」もしれない。いずれにしても、当時の東北の人でもあまり見かけぬ光景であったのだろう。この様子を想像してみると、菜の花畑の黄色い花々に獅子舞の男はすっかり溶け込んでいて、ただひとつ獅子頭のみが移動しているのが見えているような気がする。なんだか夢でも見ているかのような、奇異でシュールな光景だ。おそらくは、乙二とともに目をこすりたくなった現代の読者も多いのではなかろうか。作者は光景そのままを詠んでいるだけだが、しかしこの「そのまま」を見落とさずにきちんと捉えた才質は素晴らしいと思う。俳人は、かくあるべきだろう。春うらら……。(清水哲男)


April 2642010

 山峡の底に街道桐の花

                           平野ひろし

う咲いている地方もあるだろう。桐の花は遠望してこそ美しい。ちょうど、この句のように。花の撮影を得意とする人のなかでも、このことをわかっている人は少ないようだ。クローズアップで撮っても、それなりに美しくは見えるけれど、しかしやはり遠目に見る美しさにはかなわない。桐の花の季節には、野山は青葉若葉で埋め尽くされる。だから、桐の花はいつでもそうした鮮やかな緑に囲まれているわけで、遠望することにより、さながら紫煙のごとくにぼおっと煙って見える理屈だ。つまり桐の花の美は、周囲の鮮明な緑によっていっそう引き立てられるのである。その周囲の強い緑色は、桐の花をどこかはかなげに見せる効果も生む。北原白秋の第一歌集『桐の花』に書きつけられた「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。……」は、白秋が桐の花の美的特質をよく把握していたことを示しているだろう。掲句の作者も「山峡の底」を鳥瞰することで、みずからの美意識を表白しているのだ。百年も二百年も時間が止まってしまったかのようなこの光景は、霞んだ紫の桐の花が巧まずして演出しているわけで、その光景を即座に切り取って見せた作者の感性には、描かれた光景とは裏腹になかなか鋭いものがある。「俳句界」(2010年5月号)所載。(清水哲男)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 1052010

 苜蓿踏んで少年探偵団

                           小西昭夫

想句だろう。江戸川乱歩が創り出した「少年探偵団」は、戦前から戦後にかけて多くの少年たちを魅了した。私も虜になったひとりだが、いま振り返ってみると、魅力の秘密は次の二点に絞られると思う。その一つは登場する少年たちが大人と対等にふるまえたこと。もう一つは、掲句に関係するが、大都会が舞台であったことだ。探偵団は明智小五郎の補佐役という位置づけではあったけれど、数々の難事件に取り組むうちには、大人顔負けの活動も要求される。団長の小林少年などはなにしろピストルすら携帯していたのだから、立派な大人扱いである。しかも彼らの活躍舞台は、華やかな都・東京だ。探偵団の読者のほとんどは田舎かそれに近いところに暮らしていたので、東京というだけで胸の高鳴りを覚え、そこに住みかつ活躍する探偵団のメンバーには羨望の念を禁じ得なかったのだ。そんな読者の常で、いつしかファン気質が「ごっこ」遊びに発展してゆく。まさかピストルまでは持てないけれど、ちゃんと代替物を用意して、どこにもいるはずのない明智小五郎の指示に従い、怪人二十面相を追跡する遊びにしばし没入するというわけだ。そこで気分はすっかり探偵団になるのだが、哀しいことにここは東京じゃない。早い話が、二十面相を尾行する道も舗装などされていない田舎道であり、そこここには「苜蓿(うまごやし)・クローバー」なんぞが生えていたりする。それでも「ごっこ」に夢中になれたあの頃……。その純情が懐かしくもいとおしい。そんな思いが込められた一句だ。『小西昭夫句集』(2010)所収。(清水哲男)


May 1752010

 胸を打つ麦秋の波焦げ臭し

                           櫻井ハル子

年この時期に久留米(福岡県)に出かけて行く。楽しみもいろいろあるけれど、その一つは、博多久留米間の鹿児島線の車窓に果てしない麦畑が展開していることだ。ちょうど「麦秋」の候。何度見ても、惚れ惚れするくらいに美しい。そんな景色を詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は麦秋を遠望したものではなく、麦秋のただ中にある人の句である。つまり麦刈りの現場をうたっていて、実はこうした句はあまり詠まれてこなかった。麦刈りにせよ田植えにせよ、多くの句は遠望の美というのか、労働現場から完全にはなれたところで詠まれている。戦後に流行した言葉を使うと、ほとんどが「青白きインテリ」の句になってしまっている。農家の子でもあった私には、いつもそのことが不満で、ひところは麦秋だろうが田植えだろうが、汗の匂いのしない句には単純に拒絶反応を起こしたものだ。農民には、美の享受の前に生活がある。苦しい労働がある。そのことに思いを馳せることなく「きれいだなあ」だなんて、ふざけるなと思っていた。芭蕉や蕪村の句だって、そういう観点からは同じこと。遊び人の慰みごとでしかない。掲句の「胸を打つ」は文字通りに労働のさなかの実感であり、「焦げ臭し」も麦畑にかがまなければ感じられない臭いだ。最近の農作業は機械化が進んでおり、もはやこうした麦刈りの実感もなくなっているはずだけれど、鹿児島本線の車窓から見える麦秋の風景に魅せられつつも思うのは、いつもこうしたことどもである。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 2452010

 臨時総会なる薄暗がりに日傘

                           渡辺誠一郎

う四十年以上も前のことを思い出した。在勤していた河出書房が倒産し、臨時の株主総会が開かれたのは青葉の季節だった。私は組合の書記長という立場から傍聴することになり、すさまじい怒号の飛び交う会合を体験したのだった。窓外の初夏の陽光とは裏腹に、会合は最後まで重苦しくやりきれない雰囲気に包まれた。会社側の社長以下重役陣はひたすら謝りつづけ、株主はひたすら怒鳴りまくり、しかしそんななかにも僅かながら冷静な株主もいて、それらの人がみな業界大手に属すると知れたときには、いっそうやりきれなさが募ったことも思い出された。句の臨時総会の中身はわからないが、「臨時」と言う以上、何かただならぬ事態が想像される。決して明るい総会ではあり得ない。作者の立場も読めないけれど、誰が立てかけたのか、会場の隅の薄暗がりに日傘があるのに気がついた。まったく事態は日傘どころではないのに、そんな個人的な日除けなんぞはどうでもよいときに、どういう了見からか、何事もないかのように持ち込まれた一本の日傘。日傘に罪は無いのだが、なんだか不適切、不謹慎にさえ思えてくる。一本の平凡な日傘も、ときに思わぬことを語りはじめるのである。「週刊俳句 Haiku Weekly」(第161号・2010年5月23日)所載。(清水哲男)


May 3152010

 紫陽花や蔵に住みつく少年期

                           石井康久

宅難の時代の句だろう。子供たちが大きくなってきて、家が手狭になってきた。かといって、そう簡単に建て替えたりはできない。そこでもう使わなくなっていた小さな蔵を臨時の子供部屋として使うことになった。昼間だけそこで子供らが過ごすことになったのだが、少年だった作者はその部屋が気に入って、いつしか「住みつく」ようになったのである。蔵特有の小さな窓からは、この時期になるといつも母屋との間に咲いていた紫陽花が見えたものだった。だから大人になってからも、紫陽花を見ると少年期を思い出すのである。こう私に読めるのは、同じような体験があるからだ。高校時代にやはり家が狭くなったので、父が庭にミゼットハウスなる組み立て式の部屋を作り、私たち兄弟の勉強部屋とした。そして私もまた、母屋で寝ることを止めてしまい、そこに住みついたのだった。名目は深夜までの勉強のためだったけれど、夜になるとラジオばかりを聴いていた。また、大学生になってからは、実際に蔵を改造した下宿部屋に暮らしたこともある。そのときにはじめて、自分用の勉強机を持てたことなども懐かしく思い出された。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 0762010

 父の日を転ばぬやうに歩きけり

                           長澤寛一

年の「父の日」は六月二十日。まだ先だけど、六月が近づく頃からギフトのコマーシャルがけたたましい。そんな商魂はさておき、この日は「母の日」よりもよほど影が薄いようだ。身体的にも精神的にも、幼いときからの父親との交渉は、母親のほうがより具体的であるからだろう。私にしても、父との交渉が具体的と思えたのは、最近父の身体が弱ってきてからである。父に手を貸すなどという振る舞いは、それまでついぞ無かったことだ。一般的に言っても、父親は母親よりもずっと抽象的な存在だと思う。ところでそのような具合に存在している父親のほうはといえば、掲句にもあるように、当然のことだが、いつだって具体的な感覚を持って生きている。自分が子供にとって抽象的な存在だなどとは毫も考えない。交渉が希薄なことは自覚していても、生身の人間である以上、自分はあくまでも具体的な存在としてあるのだからだ。だから「父の日」にはいっそう、いかにも父親らしく振る舞うことに気を使うわけで、足腰の弱ってきた自覚を具体的に「転ばぬ」ようにしてカバーしようとしたりする。平たく言えば、まだまだ元気なことを具体的なありようで示そうとしているのだ。この句には、そうした父親としての自覚のありようとその哀しみを、若い人から見れば苦笑ものだろうが、的確に詠みきっていると読めた。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


June 1462010

 駅前のだるま食堂さみだるる

                           小豆澤裕子

れから一週間ほど、東京地方には雨模様の予報が出ている。いよいよ梅雨入りだろうか。今日は旧暦五月三日だから、降り出せば正真正銘の「五月雨(さみだれ)」である。この句が何処の駅前の情景を詠んだものかはわからないが、私などにはとても懐かしい雰囲気が感じられて好もしい。現今の駅前はどんどん開発が進み、東京辺りではもうこのような定食屋っぽい食堂もなかなか見られなくなってしまった。昔の駅前といえば、必ずこんな小さな定食屋があって、小さなパチンコ屋だとか本屋などもあり、雨降りの日にはそれらが少しかすんで見えて独特の情趣があった。まだ世の中がいまのようにギスギスしていなかった頃には、天気が悪ければ、見知らぬ人同士の心もお互いに寄り添うような雰囲気も出てきて、長雨の気分もときには悪くなかった。そこここで「よく降りますねえ」の挨拶が交わされ、いつもの駅、いつもの食堂、そこからたどるいつもの家路。この句には、そうしたことの向こう側に、昔の庶民の暮らしぶりまでをも想起させる魅力がある。さみだれている名所旧跡などよりも、こちらの平凡な五月雨のほうがずっと好きだな。この情景に、私には高校通学時のまだ小さかった青梅線福生駅の様子が重なって見えてくる。あれからもう半世紀も経ってしまった。『右目』(2010)所収。(清水哲男)


June 2162010

 父に似て白き団扇の身に添へる

                           渡辺水巴

く団扇を使う。いちおう部屋には冷房装置があるのだけれど、あの冷え方は好きじゃないので、ここ三年ほどはもっぱら団扇でパタパタやっている。といっても、私が使う団扇は街頭などで配られている広告入りのものだから、風情も何もあったものではない。そこへいくと、掲句の作者が使っている団扇は、ちゃんとした商品として売られていたものだろう。毎夏いろいろな色やデザインのものを求めてきたが、いつしか白系統の団扇に落ち着いてきた。白いものが、結局は自分にしっくりくると思うようになった。思い起こせば、父の好みもそうだった。やはり親子は似て来くるものだなあと、しばし苦笑まじりの感慨を覚えている。ここでいま私が使っている団扇をつくづくと眺めてみると、表にも裏にもぎとぎとの豚骨ラーメンの写真が出ている。なんとも暑そうなデザインで、これで扇いだヒには、熱風でも巻き起こりそうな感じである。どうしてこのラーメン屋は夏にこんな暑苦しい団扇を配ったのか。涼味を呼ぶにはほど遠い絵柄の団扇を、しばし眺めて溜め息をついたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 2862010

 川甚に来れば雨やむ夏料理

                           村山古郷

の店「川甚」には、一度だけ行ったことがある。もう三十数年も前のことだが、たしか詩人の会田綱雄さんを囲む会だった。江戸期に操業した川魚料亭で、柴又帝釈天の近くにある。夏目漱石、幸田露伴、谷崎潤一郎、尾崎士郎、松本清張など数々の文人が訪れたことでも有名で、寅さん映画の第一作にも登場している。句意は説明するまでもあるまいが、いかにも夏料理にふさわしい涼風も感じられて好もしい。こういう句は、この句を俳誌「俳句」で紹介しているいさ桜子の言うように、「句は、風景・場所との取り合わせで成り立っています。風景・場所は誰でも知っている特定の所というイメージが立つ事が重要です」。が、私に言わせればその前にもうひとつ。作者その人のイメージが、もっと重要な要素になるだろう。平たく言ってしまえば、作者その人のイメージと店の格とが釣り合っていなければならない。私のようにたった一度だけ行ったことがある程度では、まったく釣り合いがとれないから、句にはならない。広い意味での文人俳句にはこの要素が多く、漱石だから露伴だからはじめて句として読める作品は枚挙にいとまがない。そう考えると、この句には羨望の念と同じくらいに反発心も覚えてしまう。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)




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