リ檀句

January 0612010

 松の内妻と遊んでしまひけり

                           川口松太郎

うまでもなく「松の内」は正月七日まで。古くは十五日までが松の内とされていたが、幕府の命令もあって短縮されたのだという。また三が日を過ぎると、松をはずす地方が増えた時期もあったらしい。今や、三が日どころか元旦も休まず営業する大型店さえ、珍しくなくなってしまった。のんびりとした正月気分など、時代とともにアッという間にどこかへすっとんで行ってしまった。たちまち慌ただしい日常に舞い戻ってしまう。でも、やはり日本の正月は正月である。若者はそわそわと繁華街へくり出して行く。けれど、たいていの女房持ちはゆっくり家にいて過ごすことが多いのではないか。掲出句の夫婦は、何をして遊んだのかは知らないが、「遊んでしまひけり」……やるべき仕事もあったにもかかわらず、ついうかうかと日を過ごしてしまったという後悔とともに、「まあ、松の内だもの」という微苦笑がちょっぴり感じられる。子や孫、あるいは友だちと遊ぶのではなく、妻と遊んだところにこそ、この句のポイントがあり味わいがある。大方の人が、新年早々の意気込みとは別に、うかうかと時間をやり過ごしてしまうケースが多いのも松の内。落語家だけは高座で1月中は「おめでとうございます。本年もどうぞご贔屓に……」と連呼しつづけている。作家・松太郎の妻・三益愛子は、「母もの映画」で往時の人々の涙をさらった名女優。晩年はがらりと一転して舞台の「がめつい奴」で、がめつい「お鹿婆さん」役で活躍し、テアトロン賞などを受賞した。平井照敏編『新歳時記』(1990)所載。(八木忠栄)


January 1312010

 手を打つて死神笑ふ河豚汁

                           矢田挿雲

はしかるべき店で河豚を食べる分には、ほとんど危険はなくなった。むしろ河豚をおそるおそる食べた時代が何となく懐かしい――とさえ言っていいかもしれない。それにしても死神が「手を打つて」笑うとは、じつに不気味で怖い設定である。あそこに一人、こちらに一人という河豚の犠牲者に、死神が思わず手を打って笑い喜んだ時代が確かにあった。あるいはなかなか河豚にあたる確率が低くなったから、たまにあたった人が出ると、死神が思わず手を打って「ありがてえ!」と喜んだのかもしれない。落語の「らくだ」は、長屋で乱暴者で嫌われ者のらくだという男が、ふぐにあたってふぐ(すぐ)死んでしまったところから噺が始まる。同じく落語の「死神」は、延命してあげた男にだまされる、そんな間抜けな死神が登場する。アジャラカモクレンキューライス、テケレッツノパー。芭蕉にはよく知られた「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」と胸をなぜおろした句がある。西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」という、いかにも三鬼らしい傑作があるし、吉井勇には「極道に生れて河豚のうまさかな」という傑作があって頷ける。強がりか否かは知らないけれど、河豚の毒を前にして人はさまざまである。挿雲は正岡子規の門下だった。大正八年に俳誌「俳句と批評」を創刊し、俳人として活躍した時期があった。ほかに「河豚食はぬ前こそ命惜みけれ」という句もある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(八木忠栄)


January 2012010

 どの墓も××家とある寒さかな

                           正津 勉

の暮に墓掃除に行ったり、正月にお参りに出かけることはあっても、一般に寒い時期に墓を訪れる人はなかなかいないだろう。それでなくとも、墓地までは距離があったりして、寒い折に出かけるのはよほどの用がないかぎり、億劫になってしまいがちである。ご先祖様には申しわけないけれど。それにしても墓地は、だいたいどこやら寂しいし寒々しいもの。掲出句にあるごとく、まこと大抵の墓には、宗旨にもよるが「××家」とか「先祖代々之墓」などと刻まれている。「××家」累代の歴史に、束の間の幸せや悲劇があったにせよ、刻まれた文字からは、雪があるないにかかわらず深閑として、冬場には厳しい寒さがいっそう漂う。「公苑墓地」などと称していても、寒いことにかわりはない。家によって一律ではないにしても、墓の姿や刻まれた文字が一様に寒々しく感じられてしまうのは仕方がない。時候の「寒さ」と心理的な「寒さ」とが、下五で重なりあっている。同時に威儀を正しているような凛としたものさえ感じられる句である。この句と同時に「あばら家の明け渡し迫る空つ風」という句がならんでいる。句誌「ににん」に、勉は「歩く人・碧梧桐」を連載している。「ににん」37号(2010)所載。(八木忠栄)


January 2712010

 大雪となりて果てたる楽屋口

                           安藤鶴夫

席が始まる頃から、すでに雪は降っていたのだろう。番組が進んで最後のトリが終わる頃には、すっかり大雪になってしまった。楽屋に詰めていた鶴夫は、帰ろうとした楽屋口で雪に驚いているのだ。出演者たちは出番が終われば、それぞれすぐに楽屋を出て帰って行く。いっぽう木戸口から帰りを急ぐ客たちも、大雪になってしまったことに慌てながら散って行く。その表の様子には一切ふれていないにもかかわらず、句の裏にはその様子もはっきり見えている。今はなき人形町末広か、新宿末広亭あたりだろうか。いずれにせよ東京にある寄席での大雪である。東京では10cmも降れば大雪。これから贔屓の落語家と、近所の居酒屋へ雪見酒としゃれこもうとしているのかもしれない。からっぽになった客席も楽屋も、冷えこんできて寂しさがいや増す。寄席では、雪の日は高座に雪の噺がかかったりする。雪を舞台にした落語には「鰍沢」「夢金」「除夜の雪」「雪てん」……などがあるが、多くはない。癖の強かった「アンツル」こと安藤鶴夫の業績はすばらしかったけれど、敵も少なくなかったことで知られる。多くの演芸評論だけでなく、小説『巷談本牧亭』で直木賞を受賞した。久保田万太郎に師事した。ほかに「とどのつまりは電車に乗って日短か」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 0322010

 節分や灰をならしてしづごころ

                           久保田万太郎

の「灰」はもちろん火鉢の灰であろう。節分とはいえ、まだまだ寒い昨日今日である。夜のしじまをぬって、どこやらから「福は内!」「鬼は外!」の声が遠く近く聞こえてくる。(もっとも、近年は「鬼は外!」とは言わないようだ。おもしろくない!)その声に耳かたむけながら、何をするでもなく手もと不如意に、所在なくひとり静かにそっと火鉢の灰をならしている。あるいは、家人が別の部屋で豆まきをしている、と想定してみると、家人と自分との対比がおもしろい。ーーそんな図が見えてくる句である。火鉢など今や骨董品となってしまったが、ソファーに寝そべって埒もないテレビ番組に見入っているよりも、ずっと詩情がただよってくるし、万太郎らしい抒情的色彩が濃く感じられる。「家常生活に根ざした抒情的な即興詩」というのが、俳句に対する万太郎の信条だったと言われる。ほかに「節分やきのふの雨の水たまり」という一句もある。そして「春立つやあかつきの闇ほぐれつつ」の句もある。明日は立春。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


February 1022010

 猪突して返り討たれし句会かな

                           多田道太郎

太郎先生が亡くなられて二年余。宇治から東京まで、熱心に参加された余白句会とのかかわりに少々こだわってみたい。「人間ファックス」という奇妙な俳号をもった俳句が、小沢信男さん経由で一九九四年十一月の余白句会に投じられた。そのうちの一句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」に私は〈人〉を献じた。中上哲夫は〈天〉を。これが道太郎先生の初投句だった。その二回あと、関口芭蕉庵での余白句会にさっそうと登場されたのが、翌年二月十一日(今からちょうど十五年前)のことだった。なんとコム・デ・ギャルソンの洋服に、ロシアの帽子というしゃれた出で立ち。これが句会初参加であったし、宇治からの「討ち入り」であった。このときから俳号は「道草」と改められた。そのときの「待ちましょう蛇穴を出て橋たもと」には、辛うじて清水昶が〈人〉を投じただけだった。「待ちましょう」は井川博年の同題詩集への挨拶だったわけだが、博年本人も無視してしまった。他の三句も哀れ、御一同に無視されてしまったのだった。掲出句はその句会のことを詠んだもので、「返り討ち」の口惜しさも何のその、ユーモラスな自嘲のお手並みはさすがである。「句会かな」とさらりとしめくくって、余裕さえ感じられる。句集には「余白句会」の章に「一九九五年二月十一日」の日付入りで、当日投じた三句と一緒に収められている。道草先生の名誉のために申し添えておくと、その後の句会で「袂より椿とりだす闇屋かな」という怪しげな句で、ぶっちぎりの〈天〉を獲得している。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


February 1722010

 冬籠或は留守といはせけり

                           会津八一

の寒さを避け温かい家のなかにこもって、冬をやり過ごすのが「冬籠」だけれど、「雪籠」とも言う。私などのように雪国に生まれ育った者には、軒下にしっかり雪囲いを張りめぐらせた家のなかで、身を縮める「雪籠」のほうにより実感がある。雪国新潟に生まれた八一も同様だったかもしれない。雪はともかく、家にこもって寒い冬をやり過ごすというこの季語は、今の時代にはとっくに死語になってしまっているようだ。けれども、とても情感のある好きな言葉ゆえつい使いたくなる。「或(あるい)は」は「どうかすると」とか「ある場合は」という意味だから、家人をして「先生は今留守です」と言わせて、居留守を使うことがあるのであろう。何をしているにせよ、していないにせよ、こもっている時の来客への応対は面倒くさい。そんな時は「留守」を許していただきたいね。居留守と言えば、私の大好きなエピソードがある。加藤郁乎が師とあおいでいた吉田一穂を、ある日自宅に訪ねた時のこと。玄関で「先生!」と来訪を告げると、家のなかから「吉田はおらん!」と本人が大声で答えた。奥様が出て来て「そんなわけですから、また出直して来てください」と頭を下げられたという。いかにも吉田一穂。今どきは勧誘の電話だって容赦なく入り込んでくるのだから、始末が悪い。八一には「凩や雲吹き落す佐渡の海」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2422010

 大井川担がれて行く冬の棺

                           榎本バソン了壱

井川は静岡県中部から駿河湾に注ぐ、全長百六十八キロの川。その昔、架橋や渡船が禁じられていた川だから、人足が肩車や輦台(れんだい)で渡したことで知られる。担がれて渡るのは人ばかりではなく、棺だって担がれて渡ったであろう。冬の水を満々とたたえた、流れの速い大河を、棺がそろそろと慎重に担がれて行く。寒々とした冬である。命知らずの猛者たちが棺を担いで渡る様子が、大きなスケールと高いテンションを伴って見えて印象深い。掲出句は本年1月に刊行されたバソン了壱の第一句集『川を渡る』のなかの一句。東京から京都の大学へ通う新幹線が渡る百十一の川をネットで確認し、番外一句を加えて川を詠みこんだ百十二句の俳句を収めている。尋常ならざるアイディアと、尋常ならざる俳句の人である。しかも、全句を多様なスタイルの筆文字(左利き)で自ら書いたという、コンパクトでユニークな句集である。「小さな事件に悩み、喜んでいるささやかな自分を川という鏡に映して、反問している」、それが句集全般を支配している、と前書で本人は述懐している。掲出句よりもバソン了壱らしい句は、むしろ「秋刀魚焼く女の脂目黒川」とか「安藤川一二三アンドゥトロワ」などのほうにある、と言っていいかもしれない。ともかく、「冬の棺」が担がれ去って行くことで、いよいよ冬も去り春が近いことを暗示している。もう二月尽。『川を渡る』(2010)所収。(八木忠栄)


March 0332010

 雛買うて祇園を通る月夜かな

                           若山牧水

日は桃の節句、雛祭り。本来は身体のけがれを形代(かたしろ)に移して、川に流す行事だったという。のちに形代にかえて、雛人形を家に飾るようになった。女児を祝う祭りとなったのは江戸時代中頃から。掲出句は雛を買うのだから、三月三日以前のことである。酒好きな牧水のことゆえ、京の町のどこぞでお酒を飲んでほろ酔い機嫌。買った雛人形を大事に抱えて(いつもなら、酒徳利を大事に抱えているのだろうが)、今夜は月の出ている祇園を、ご機嫌で鼻唄でもうたいながら歩いて帰るところかもしれない。雛人形も、祇園の町も、照る月も、そして自分も、すべて機嫌がいいという句である。滅多にない幸福感。「通る」は一見平凡な表現のように思われるけれど、少々心もふくらんで「まかり通って」いる状態なのかもしれない。この句からは、誰もが「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」(晶子)を想起するかもしれない。しかし、この句の場合は「よぎる」よりも「通る」のほうが、むしろさっぱりしていてふさわしいように思われる。短歌と俳句は両立がむずかしいせいか、俳句を作る歌人は昔も今も少ない。それでも齋藤茂吉や吉井勇、会津八一をはじめ何人かは俳句を残している。牧水の句も多くはないけれど、他に「一すじの霞ながれて嶋遠し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1032010

 烏賊の足噛みしめて呑む春の雨

                           寺田眉天

うまでもなく「烏賊の足」は飲み屋などでは「ゲソ」と呼ばれる。もともと鮨屋で「ゲソ(下足)」と呼ばれていた。煮てよし、焼いてよし、揚げてよし、ナマでもよし。この「ゲソ」なるもののおいしさは格別である。コレステロールが高いのなんのと言われても、つい気軽に注文してしまう。なかなかやめられない。とりわけ酒のつまみとして呑ンベえにはこたえられない! じっくり噛みしめることによって、海の香にとどまらず、その烏賊の氏素姓までがしのばれるような気がしてくる。掲出句は大勢でワイワイ宴会をしているというより、一人静かに居酒屋のカウンターで、とりあえず注文した「烏賊の足」(「ゲソ」とせず、こう呼んだところに烏賊に対する作者の敬愛を読みとりたい)をしみじみ噛みしめながら、独酌しているのだろう。外は小降りの春の雨。ーそんな風情を勝手に想像させてくれる。「烏賊の足」は居酒屋によく似合うつまみである。わけもなく、それとなく、酒を愛するオトナのうれしい酒のひとときが伝わってくる。眉天は寺田博。文芸誌「文芸」「作品」「海燕」の往年の名編集長だった。自らの著書に『ちゃんばら回想』『昼間の酒宴』他がある。この句、まさに「昼間のひとり酒宴」と読みとりたい。他に「雷(いかづち)の暴れ打ちして涼夜かな」がある。眞鍋呉夫・那珂太郎らの「雹の会」に属す。『雹』巻之捌(2007)所収。(八木忠栄)

[編集部より]作者の寺田博氏は、三月五日に逝去されました。76歳。謹んでお悔やみ申しあげます。


March 1732010

 梅が香や根岸の里のわび住居

                           船遊亭扇橋

う梅の季節も過ぎてしまったか。さて、巷間よく知られているくせに作者は誰?ーという掲出句である。「……根岸の里のわび住居」の句の上五には、季語を表わす何をもってきてもおさまりがいいという、不思議な句の作者は落語家であった。オリジナルは「梅が香や」だけれど、「初雪や」と置き換えてもいいし、「冷奴」でもピタリとおさまる。「ホワイトデー」だっておかしくはない。この落語家(大正〜昭和期に活躍)の名前は今やあまり知られていない。句のほうが有名になってしまい、名前などどうでもよいというわけ。落語の歴史が語られる際、この扇橋の名前はほとんど登場しないが、人格的リーダーとして名を馳せた五代目柳亭左楽の弟弟子にあたる八代目扇橋と推察される。しかし、詳細は知られていない。現・九代目扇橋の亭号は「入船亭」だけれど、古くは「船遊亭」だった。かつて文人墨客が多く住んだ根岸には、今も言わずと知れた子規庵(旧居)があり、子規はここで晩年十年を過ごした。落語関係では、近くに先代三平の記念館「ねぎし三平堂」があり、根岸はご隠居と定吉が「風流だなあ」を連発する傑作「茶の湯」の舞台でもある。「悋気の火の玉」も関連している。子規が根岸を詠んだ句に「妻よりは妾の多し門涼み」がある。そんな時代もあったのだろう。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


March 2432010

 盗人に春の寝姿見られけり

                           与謝野鉄幹

の意味はそのままである。何ら高踏でも、むずかしいことを詠っているわけでもない。陽気がよくなった春の午後か宵、居間にごろりと横になってうとうとしていたのであろう。その無防備な寝姿を盗人に見られたというのだ。けれども盗人であれ誰であれ、本人は寝ていたわけだから、それが盗人だったのか他の誰かだったのか、あるいは通りかかった妻だったのか、本人にはわからないはずである。盗人だったとすれば、盗人が春の宵に人けがないようだから一仕事しようと外から覗いた。するとそこに、まだ明かりもつけずに男が寝ていたから慌てて立ち去った。そのことに気付いた奥さんに、起きてから呆れ顔で聞かされた。ーまあ、そんなことを勝手に想像させていただくのもよろしかろう。いや、まんざら勝手な想像でもなさそうだ。というのは、与謝野晶子がすかさず「盗人に宵寝の春を怨じけり」と詠んでいるからだ。寝姿を見られたあと、晶子にそのことを告げられ、地団駄踏んで怨みごとを吐き出したところで、あとのまつり。ものを盗まれたよりも無防備な「寝姿」を盗まれてしまった悔しさ。あるいは「寝姿」は晶子だったか。だとすると晶子の怨みごと。落語に出てくるような、間抜けな盗人だったかもしれない。男性であっても、少々色っぽい「春の寝姿」と「盗人」の取り合わせの妙味。三者三様それぞれに春風駘蕩といった観がある。句の裏に、どっしりと構えている晶子夫人の姿がどうしても見えてくる。両者の句をならべれば味わいがいっそう愉しくなる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 3132010

 一二三四五六七八桜貝

                           角田竹冷

んな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


April 0742010

 白露や死んでゆく日も帯締めて

                           三橋鷹女

日、四月七日は鷹女忌である。鷹女の凛として気丈で激しく、妖艶さを特長とする世界については、改めて云々するまでもあるまい。一九七二年に亡くなる、その二十年前に刊行された、第三句集『白骨』に収められた句である。鷹女五十三歳。同時期の句に「女一人佇てり銀河を渉るべく」がある。細面に眼鏡をかけ、胸高に帯をきりりと締めた鷹女の写真は、これらの句を裏切ることなく敢然と屹立している。橋本多佳子を別として、このような句業を成した女性俳人は、果たしてその後にいただろうか? 女性としての孤高と矜持が、余分なものをきっぱりとして寄せつけない。弛むことがない。「帯締めて」に、気丈な女性のきりっとした決意のようなものがこめられている。句集の後記に鷹女は「やがて詠ひ終る日までへのこれからの日々を、心あたらしく詠ひ始めようとする悲願が、この一書に『白骨』の名を付せしめた」とある。心あたらしく……掲出の句以降に、凄い句がたくさん作られている。晩年に肺癌をはじめ疾病に悩まされた鷹女は、「白露」の秋ではなく花吹雪の時季に命尽きた。それも鷹女にはふさわしかったように思われる。中原道夫の句に「鷹女忌の鞦韆奪ふべくもなく」(『緑廊』)がある。この句が名句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」を意識していることは言うまでもない。『白骨』(1952)所収。(八木忠栄)


April 1442010

 春の日をがらんと過ごすバケツだよ

                           山本純子

が終わって、春の日はいよいようららかでのんびりとして穏やかである。あちらこちらからあくびがいくつも出て来そうな気配。海はひねもすのたりのたりしていて、雲雀は空高く揚がり、トンビはくるりと輪を描いているかもしれない。ま、春は人もトンビもさまざまでありましょう。そんなのどかな風景に、場違いとも思われるバケツの登場である。いや、バケツだって空(から)の状態では、大あくびだってするさ。海にも行けず、空にも揚がれないバケツはどこに置かれているにせよ、大口をいっぱいにあけて春の日を受け入れ、しかもがらんとしたまま無聊を慰めているしかない。掲句ではバケツの登場もさることながら、「だよ」という口語調のシメがズバリ新鮮な効果をあげている。いつだったか、中島みゆきがコンサートのステージに登場するや、いきなり「中島みゆきだわよ」と挨拶した可笑しさを想起してしまった。ここは「かな」や「なり」のような、いかにも俳句そのものといった、ありきたりの調べにしてしまってはぶちこわしである。俳句誌の「変身!?」という特集で、純子が自らバケツに変身して「小学校の廊下の片すみで、まわりにゾウキンとか、四、五枚もかけられて、始業のベルが鳴るまで、ぼけっと過ごすの、キライじゃないけど、ヒマなんだよね。…」というコメントを付して掲げた一句。詩集『あまのがわ』で二〇〇五年度のH氏賞を受賞した。『船団』84号(2010)所載。(八木忠栄)


April 2142010

 あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ

                           三好達治

暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2842010

 葉桜が生きよ生きよと声かくる

                           相生葉留実

海道でさえ桜は終わって、今は葉桜の頃だろうか。桜の花は、開花→○分咲き→○分咲き→満開→花吹雪→葉桜と移る、その間誰もが落着きを失ってしまう。高橋睦郎が言うように「日本人は桜病」なのかもしれない。花が散ったあと日増しに緑の若葉が広がっていくのも、いかにも初夏のすがすがしい光景である。咲き誇る花の時季とはちがった、新鮮さにとって替わる。さらに秋になれば紅葉を楽しませてくれる。「花は桜」と言われるけれど、葉桜も無視できない。花が散ったあとに、いよいよ息づいたかのように繁りはじめる葉桜は、花だけで終わりではなく、まさにこれから生きるのである。「生きよ生きよ」という声は桜自身に対しての声であると同時に、葉桜を眺めている人に対する声援でもあるだろう。葉留実には、そういう気持ちがあったのではなかろうか。彼女は二〇〇九年一月に癌で亡くなったが、掲句はその二年前に詠まれた。亡くなるちょっと前に「長旅の川いま海へ大晦日」の句を、病床でご主人に代筆してもらっている。本人が「長旅」をすでに覚悟していた、そのことがつらい。他に「春の水まがりやすくてつやめける」の句もある。もともとは詩人として出発した。処女詩集『日常語の稽古』(1971)に、当時大いに注目させられた。いつの間にか結社誌「槙」→「翡翠」に拠って、俳句をさかんに作り出していた。『海へ帰る』(2010)所収。(八木忠栄)


May 0552010

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

日は「子供の日」、大型ゴールデン・ウィークの最後の日でもある。みなさま身も財布もクタクタ……でしょうか? 例外なく子供はカレーライスが大好き。いや、大人だって例外ではない。好みによって、家庭によって、それぞれ工夫されたカレーライスが作られる。子供にも楽しみながら簡単に作ることができる。私が子供の頃の田舎では、肉は容易に入手できなかったけれど、肉のかわりに鮭缶や鯨肉入りのものをよく食べさせられ、おいしかった。さて、子供の日に何かの集まりで、お母さんたちが大鍋にどっさり作ったカレーが振る舞われたのだろう。子供たちが寄ってたかって、あっという間に大鍋が空っぽになってしまったーという情景をごく素直に詠んだ句である。妙にテクニックを凝らすよりも、このストレートさがむしろ好ましい。それでいて、中七「カレー空っぽ」というKR音の重ね方が、明るいリズム感を生んでいる。隠された計算だろう。かつて和歌山で毒入りカレー事件なる物騒な事件が起きたけれど、一人でしみじみスプーンを口に運ぶというよりは、子供であれ、大人であれ、大勢寄ってたかってワイワイとにぎやかに食べるほうが、カレーライスはおいしいに決まっている。レストランのコックさんが作ったものよりも、お母さんがさりげなく作ったカレーがいちばんおいしい。不思議な料理である。私たちが食べるカレーのスタイルはインドではなく、イギリスで作られたものだそうだ。清水哲男『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)


May 1252010

 皿の枇杷つぶらつぶらの灯なりけり

                           和田芳恵

杷の白い花が咲くのは冬だが、その実は五〜六月頃に熟す。枇杷の木は家屋敷内に植えるものではない、という言い伝えを耳にしたことがある。しかし、家のすぐ外に植えてある例をたくさん目にする。オレンジ色の豆電球のような実がびっしりと生(な)るのはみごとだけれども、緑の濃い葉の茂りがどことなく陰気に感じられてならない。その実一つ一つは豆電球のようないとしい形をしていて、まさしく「つぶらつぶらの灯」そのものである。食べる前に、しばし皿の上の「つぶら」を愛でている、の図である。あっさりとした甘味が喜ばれる。皮がぺろりとむけるのも、子供ならずともうれしく感じられる。それにしても、つぶらな実のわりに種がつるりとして、不釣り合いに大きいのは愛嬌と言っていいのかもしれない。「枇杷の種こつんころりと独りかな」(角川照子)という句を想う。千葉や長崎、鹿児島のものが味がよいとされるが、千葉では種無し枇杷を開発しているようだ。あの大きめの種が無いというのは、呆気ない気がするなあ。枇杷は山ほど食べたいとは思わないけれど、年に一度は旬のものを味わいたい。樋口一葉研究でよく知られた芳恵は、志田素琴について数年俳句を学んだことがあるという。夏の句に「ほととぎす夜の湖面を鋭くす」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1952010

 初夏(はつなつ)や坊主頭の床屋の子

                           長嶋肩甲

主頭で子供時代を過ごした昔の子は、たいてい家庭で親がバリカンで頭を刈ってくれた。私も中学までそうだった。刈ってもらっているあの時間は、子供にとって退屈で神妙なひとときだった。母が手動のバリカンで刈ってくれるのだが、時々動きが鈍ったり狂ったりして、髪の毛を喰ってしまうことがあった。「痛い!」。「我慢せい!」と言って、バリカンで頭をコツンとやられた。挙句はトラ刈りに近い仕上がりになってしまうから、文句たらたら。「我慢せい! すぐに伸びら」。さすがに高校生になると床屋へ行った。床屋の子ならば、プロである親にきれいに刈ってもらって、初夏であればクリクリ坊主頭がいっそう涼しそうに見える。初夏の風に撫でられ、いい香りさえ匂ってきそうだ。トラ刈りを我慢させられる身にとっては、じつに羨ましかった。冬の坊主頭は寒そうだが、夏は他人の頭であっても眺めていて気持ちがいい。「理髪店」や「BARBER」ではなく「床屋」と表現したことで、懐かしい子供の坊主頭を想像させてくれる。肩甲は作家・長嶋有の俳号。『夕子ちゃんの近道』で第一回「大江健三郎賞」(2006)を受賞した。若いけれど、すでに句集『月に行く』『春のお辞儀』『健康な俳句』があり、屈託のない自在な世界をつくり出している。「めざましの裏は一人でみる冬日」「初夏やつまさき立ちで布団叩く」など。『健康な俳句』(2004)所収。(八木忠栄)


May 2652010

 五月雨ややうやく湯銭酒のぜに

                           蝶花楼馬楽

月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。(八木忠栄)


June 0262010

 花筒に水させば蚊の鳴き出づる

                           佐々木邦

筒は花を活ける陶製か竹製の筒であろう。ウソではなく本当に、今まさにこの鑑賞を書こうとしたタイミングで、私の左の耳元へワ〜〜ンと蚊が飛んできた。ホントです。(鳴くのは雌だけらしい)あわてて左掌で叩いたらワ〜〜ンとどこやらへ逃げた……閑話休題。花筒に花を活けようとして水を差そうとしたら、思いがけず中から蚊が鳴いて出たというのだ。ワ〜〜ンという、あのいやな「蚊の鳴くような」声に対する一瞬の驚きがある。漱石の木魚から吐き出される昼の蚊ではないけれど、花筒の暗がりに潜んでいた蚊にとっては、思いがけない災難。夏場は、とんでもないあたりから蚊がワ〜〜ンと出てくることがある。木魚からとはちがって、花筒からとはしゃれていて風雅でさえあるではないか。ユーモア作家の先駆けとしてその昔売れっ子だった邦は、鳴いて出た蚊に立ち合ってユーモアと風雅を感じ、しばし見送っていたようにさえ思われる。あわてて掌でピシャリと叩きつぶすような野暮な行動に出ることなく、鳴いて飛び去る方をしばし見送っていたのだろう。「蚊を搏つて頬やはらかく癒えしかな」(波郷)などはどことなくやさしい。邦の夏の句に「猫のゐるところは凉し段ばしご」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0962010

 梅雨の夜や妊るひとの鶴折れる

                           田中冬二

ろそろ梅雨の入り。梅の実が熟する時季に降る雨だから梅雨。また、栗の花が咲いて落ちる時季でもあるところから「墜栗花雨(ついりあめ)」とも呼ぶと歳時記に説明がある。雨の国日本には雨の呼称は数多くあるけれど、「黴雨」「梅霖」「荒梅雨」「走梅雨」「空梅雨」「梅雨晴れ」などなど、梅雨も多様な呼び方がされている。さて梅雨どき、昼夜を通して鬱陶しい雨がつづいている。妊った若妻であろうか、今夜も仕事で帰りの遅い夫を待ちながら、食卓で所在なく黙々と千代紙で鶴を折っている。「鶴は千年……」と言い伝えられるように、長寿の動物として鶴は古来尊ばれてきた。これから生まれてくる吾子が、健やかに成長してくれることと長寿を願いながら、一つ二つと鶴を折っているのであろう。静けさのなかに、雨の夜の無聊と、生まれてくる吾子に対する愛情と期待が雨のなかにもにじんでいる。冬二には『行人』『麦ほこり』など二冊の句集があるが、実作を通して「俳句は決して生やさしいものではない」と述懐している。相当に打ち込んだゆえの言葉であろう。筆者は生前の冬二をかつて三回ほど見かけたことがあるけれど、長身痩躯で眼鏡をかけ毅然とした表情が印象に強く残っている。冬二の句に「白南風や皿にこぼれし鱚の塩」がある。たまたま梅雨と鶴を組み合わせた句に、草田男の「梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ」がある。平井照敏編『新歳時記』夏(1990)所載。(八木忠栄)


June 1662010

 雨霽(は)れて別れは侘し鮎の歌

                           中村真一郎

ったい誰との「別れ」なのだろうか。俳句として、そのへんのことにはあまりこだわらなくてもよいのかもしれない。けれども、誰との「別れ」だから侘しいのだ、という理屈がついてまわっても仕方があるまい。真一郎が敬愛していた立原道造は、大学を卒業して建築事務所に勤めたが、健康を害して追分村のかの油屋で療養していた。道造に声をかけられた真一郎は、同じ部屋でひと夏を過ごした。けれども、翌年の夏には道造はすでに亡き人になっていた。そんな背景があって、同年輩の詩人たちと道造追悼の歌仙を巻いたおり、掲句はその発句として作られたという。「鮎の歌」は道造が生前に出版したいと考えていた連作物語集である。そうした掲句の背景を知っておけば、改めて句の意味や解釈などを縷々述べる必要はあるまい。雨が降っているより、霽(は)れたからこそ侘しさはいっそう強く感じられるのだ。真一郎には「薔薇の香や向ひは西脇順三郎」という句もある。堀辰雄は中村真一郎を「山九月日々長身の友とあり」と詠んでいる。真一郎という人は長身・洒脱の人だったし、氏が酒場などで語るどんな話にせよ、人を飽きさせない魅力と好奇心に富んでいたことを思い出す。見かけによらず気さくな人だった。『俳句のたのしみ』(1996)所載。(八木忠栄)


June 2362010

 立札のなき花ありて梅雨の園

                           田村泰次郎

園に咲くそれぞれの花には、たいてい名前を書いた札が立ててある。薔薇園などでもうるさいほどマメに札が立てられている。プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコ……といった具合である。薔薇にかぎらず花に見覚えはあっても、名前まで詳しくない当方などにはありがたい(すぐに忘れてしまうのだけれど……)。もっともダイアナとミチコの違いなど、当方にはどうでもよろしい。梅雨どきの花園は、訪れる人も少ないだろう。そうしたなかで、なぜか立札がない花があったりする。立札のあるものはスッと見て過ぎるにしても、立札のない花には妙に気にかかって、しばし足を止めしまうことがある。掲句では、花の前に何人かかたまって覗き込んでいるご婦人方が、あれよこれよと知識をひけらかしているのかもしれない。さりげない花でも、立札があれば一人前に見えるからおかしい。雨が降っていたり曇天だったりすると、立札のないのが歯抜けのように妙に気にかかってしまったりする。何気ないこまやかな着眼にハッとさせられる句である。泰次郎は小説「肉体の悪魔」「肉体の門」などで敗戦直後にセンセーションを巻き起こした。映画にもなった。そんなことを知る人も少なくなった。泰次郎には多くの俳句がある。「故旧みなひと変りせる祭りかな」「昨日来し道失へる野分かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 3062010

 千枚の青田 渚になだれ入る

                           佐藤春夫

書に「能登・千枚田」とある。輪島市にあって観光地としてもよく知られる千枚田であり、白米(しろよね)の千枚田のことである。場所は輪島と曽々木のほぼ中間にあたる、白米町の山裾の斜面いっぱいに広がる棚田を言う。国が指定する部分として実際には1,004枚の田があるらしい。私は三十年ほど前の夏、乗り合いバスでゆっくり能登半島を一人旅したことがあった。そのとき初めて千枚田を一望して思わず息をのんだ。「耕して天に到る」という言葉があるが、この国にはそのような耕作地が各地にたくさんあり、白米千枚田は「日本の棚田百選」に選ばれている。まさしく山の斜面から稲の青がなだれ落ちて、日本海につっこむというような景色だった。秋になれば、いちめんの黄金がなだれ落ちるはずである。千枚田では田植えの時期と稲刈りの時期に、今も全国からボランティアを募集して作業しているのだろうか。春夫が千枚田を訪れたのはいつの頃だったのか。日本海へとなだれ落ちる青田の壮観を前にして、圧倒され、驚嘆している様子が伝わってくる。いちめんの稲の青が斜面から渚になだれ入る――それだけの俳句であるし、それだけでいいのだと思う。この文壇の大御所は折々に俳句を作ったけれど、雑誌などに発表することはなかったらしい。他に「松の風また竹の風みな涼し」「涼しさの累々としてまり藻あり」など、出かけた土地で詠んだ句がある。いずれも屈託がない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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