O謔「句

January 0712010

 生きてゐる仕事始めの静電気

                           守屋明俊

んべんだらりと過ごした三が日を終えて、仕事が始まった。仕事納めの日から数えれば一週間しか経っていないのに昨年というだけで遠い距離が感じられる。正月休みというのは他の休みと違ってぽかっと大きな穴に落ち込んだような、浦島太郎のような心持ちになってしまう。ビルのエスカレーターを上がりやれやれとドアノブに手を触れた瞬間びりり、と軽い衝撃が伝わる。乾燥したこの季節に多い現象だけど、のびきった気持ちに喝を入れて仕事モードに切り替えよと言われているようだ。上五の「生きてゐる」の措辞は話し言葉にすれば「生きてるぅ??」と静電気に呼びかけられる感じだろうか。指に来た刺激が休みボケをたたき起こすようでなんとなくおかしい。「鏡餅テレビ薄くて乗せられず」「何たる幸グラタンに牡蠣八つとは」など日常の出来事が豊かな諧謔で彩られていて、おとなの味わいを感じさせる。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)


January 1412010

 屋根のびてきて屋根の雪落ちにけり

                           しなだしん

が珍しい瀬戸内海と太平洋岸の冬しかしらないので、一年の三分の一を雪に封じ込められる生活は想像するしかない。豪雪地帯である新潟県上越地方を舞台にした鈴木牧之の『北越雪譜』には以下のような記述がある。「雪ふること盛んなるときは積もる雪家をうづめて雪と屋根と等しく平らになり、明りのとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火を照して家の内は夜昼をわかたず」雪囲いをしてほとんど塞いでしまった窓からは灰色に垂れこめた空と軒の黒い影しか見えないだろう。その影がすうっと伸びる心地がして、雪が滑り落ちる。そんな情景を外から見れば「屋根のびてきて」ということになろうか。「リアル」とは自分の内側の体験を掴みとって、他の誰もが出来ない表現で読み手に感銘を呼び起こすことだとすれば、雪国での生活経験のない私にもその瞬間がいきいきと想像される一句である。『夜明』(2008)所収。 (三宅やよい)


January 2112010

 着ぶくれて動物園へ泣きに行く

                           西澤みず季

月も下旬となり寒さも極まるとダウンジャケットやコートに身を固め、毛糸帽を目深かにかぶった人の姿が増えてくる。電車の中も押し合いへしあい嵩を増した者同士、身動きもとれないありさまで運ばれてゆく。そんな格好をしていると一番不似合いなのが優雅に恋愛することかもしれない。寄り添うにしてもごそごそと腕も組めやしない!それに比べ悲しみと着ぶくれは似つかわしく通じるところがありそう。だけどこの句では泣きにゆくのが動物園というところが意表を突いている。人に見られたくないので動物園を選んだのならラマやカモシカ、といったあまり人が集まっていない動物の前にあるベンチを選べばゆっくりと泣けそうだ。着ぶくれて泣いている様子を不思議そうに眺めている柵の中の動物の表情を想像するとなんだかおかしい。期せずして誘い出す笑いがせつなく明るくて、私も泣くために着ぶくれて動物園へ行きたくなった。『ミステリーツアー』(2009)所収。(三宅やよい)


January 2812010

 障子閉めて沖にさびしい鯨たち

                           木村和也

の日ざしを受け鈍く光る障子は外と内とをさえぎりつつも外の気配を伝える。ドアは内と外を完全に遮断してしまうけど、障子は内側にいながらにして外の世界を感じる通路をひらいているように思う。「障子しめて四方の紅葉を感じをり」の星野立子の句がそんな障子の性質を言い当てている。掲句では障子を閉めたことでイマジネーションが高まり沖合にいる鯨が直に作者の感性に響いているといえるだろう。大きく静かな印象をもつ鯨を「鯨たち」と複数にしたことでより「さびしさ」を強めている。冬の繁殖期に日本の近海に回遊してくる鯨。その種類によっては広大な海でお互いを確認するためさまざまな音を出すという。「例えば、ナガスクジラは人間にも聞き取れる低い波長の音を出し、その音は海を渡ってはるかな距離まで響き渡る。」と、「世界動物大図鑑」に記述がある。閉めた障子の内側に坐して作者は沖にいる鯨の孤独を思い、ひそやかな鯨の歌に耳をすましているのかもしれない。『新鬼』(2009)所収。(三宅やよい)


February 0422010

 春がくる少し大きい靴はいて

                           浮 千草

日は立春。まだまだ寒いけれども陽射しは明るさを増し、昼の時間も長くなってゆく。「少し大きい靴はいて」という表現に春よこい、春よこい♪と、昔なつかしい童謡がまず頭にめぐってきた。そして山之口貘の「ミミコの独立」なども。とうちゃんの大きな下駄をはいて自分のかんこをとりにいくんだ、と歩き出すあの一節。「こんな理屈をこねてみせながら/ミミコは小さなそのあんよで/まな板みたいな下駄をひきずって行った」そんなかわいい場面が思い浮かぶ。春の訪れによちよち歩くみよちゃんや、ミミコを想像するのも楽しい。掲句は「大きい靴」で大きなとは違うのだが冷たく身の縮む冬が去り、春そのものが大きな靴をはいてやってくる。と擬人化して考えてもゆたかでゆったりした気分になる。大きな靴と春は似合いだ。作者は柳人。句集には「ものわすれ増えてこの世はももいろに」「おばさんにはなったが大人とも言えず」ユニークな川柳の作品が並ぶ。『夢をみるところ』(2009)所収。(三宅やよい)


February 1122010

 動き出す春あけぼのの電気釜

                           小久保佳世子

はあけぼの やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて―と、国語の時間に繰り返し暗唱させられたそのむかしから、春とあけぼのは私の中でぴったりセットになっている。夏の朝は水の匂いがするけど、春の夜明けはほんわかとした布の手触り、ふわふわと期待に満ちたピンク色の時間帯だ。掲句のように我が家でも最初に活動を始めるのは炊飯器なのだけど、こう書かれてみると電気釜が生き物のようでおかしい。「電気釜」にかかる「春あけぼの」の古典的言葉の効果でタイマーが入ってしゅっしゅっと動き始める炊飯器の蒸気がうすくたなびく東雲のようだ。こうした言葉の斡旋で見慣れた台所の朝の光景を一変させている。書きぶりは真面目だけど、何かしらおかしみを含んだ作品に上質なユーモアのセンスを感じる。「謝る木万歳する木大黄砂」「春の港浮雲と我を積み残し」『アングル』(2009)所収。(三宅やよい)


February 1822010

 人を見る如く椿の花円く

                           岸本尚毅

ぶりな侘介が咲き終わり、これからは華やかな椿の出番になる。椿は古くから日本で愛されてきた花。植物辞典によると花の真ん中の雄蕊の基部と花弁が合着しているので、咲き切った花の形のまま落ちるとある。「赤い椿白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)「落椿とは突然に華やげる」(稲畑汀子)のようにどちらかというと咲いている姿より落ちる姿が俳句では詠まれることが多かったように思う。くっきりと咲いている椿は自己主張が強すぎて詠みにくいのかもしれない。掲句では花を見るのではなく花から見つめられている、と見方を逆転させることで黄色く大きな花芯を持つ椿の存在感と気配を感じさせる。最後の「円く」という言葉がこの花の持つ柔らかさと温かみを表しているようだ。『感謝』(2009)所収。(三宅やよい)


February 2522010

 江ノ島のガソリン臭き猫の恋

                           須藤 徹

夜も近所の野良猫や飼い猫たちが入り乱れて悩ましい声で呼び合っている。まだ寒いじゃないか、と蒲団にもぐりつつ思うけど鳴き始める猫たちは本能で春を感知しているのだろう。「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)の句にあるようにひたすらに恋に打ち込む猫がいとおしくもあり、滑稽でもある。家に猫を飼う人達にとっては気が揉める時節の到来だろう。春浅き江の島に車を飛ばして押し寄せてくる若いカップル。その車の下に潜む恋猫。その見つけどころに、「ガソリン臭き」とかぶせたところに現実味が漂う。それでいて猫の恋がちょっぴり抒情的であるのは背景に潮の香りが広がるからか、その二つの匂いが入り混じって忘れ難い印象を残す。掲句が作られてから10数年経過した今、江の島のバイク族も車もめっきり少なくなったことだろう。恋も体当たりだった行動派からメールやパソコンで恋情をやりとりする若者たちへ。匂いもなくどこか無機質なその恋愛と猫の恋をだぶらせようとしても、もはや遠いかもしれない。『幻奏録』(1995)所収。(三宅やよい)


March 0432010

 三月くる葦の根に泡貝に泡

                           ふけとしこ

月に入るとぐっと気温が上がり、植物の生育も活発になる。固くしまっていた木の芽もほころび始める。一日の平均気温が五度を上回るようになると、根から吸い上げた水分を幹から枝先へ運ぶようになると気象協会の説明書きにあった。だとすると、木の幹に耳をすませば幹の中を流れる水音が聞こえるかもしれない。掲句では水の中にある葦の根にぷくぷく出てくる銀色の泡と貝の泡が春の息吹を感じさせる。葦には水質浄化作用があり、コンクリートで固めてダメになった生態系回復のため、いったんは刈り込んだ葦を再び育て始める河口も多いと聞く。美しい写真とセットになったこの句の脇には「淀川べりを歩いた。葦の地下茎から芽が出初めていた。」と添え書きがある。植物にまつわるエッセイと俳句と写真がセットになったこの本はとても楽しい。小さな道端の草や花に心をとめる作者ならではの一冊で、その積み重ねが俳句や文章になってちりばめられている。『草あそび』(2008)所収。(三宅やよい)


March 1132010

 ライオンの柵の中なる花辛夷

                           小西鷹王

まれ育った家が王子動物園の近くだったせいもあって動物園が好きだ。まだ車や街の騒音の少なかった夕暮れどきには風にのってあしかの声が聞こえてきた。あの頃見たライオンは狭い檻の中で窮屈そうだったけど、多摩動物園のライオンなどはかなり広い敷地に群れをなして飼われている。山のような起伏をもった場所に数頭飼育している動物園もある。掲句は「とべ動物園五句」と題された中の一句。生まれた時から飼育員に育てられた白クマのピースがいる動物園だ。囲われたライオンの柵の中にある樹木にも四季はめぐる。春が来て今までは何の木かわからなかったひょろひょろした枝に真白な辛夷がほころぶ。たまたまこの時期にライオンを見にきたひとは、しばし可憐な花にも見とれることだろう。日本特産の花を咲かせている庭の主人がアフリカから連れてこられたライオンなのだからその取り合わせにかすかなあわれも感じられる。今まではライオンにとって寒く厳しい毎日だったけど、これからは日に日に暖かくなる。明るい日差しにごろっと寝転んでサバンナの夢を楽しんでほしい。『小西鷹王句集』(2006)所収。(三宅やよい)


March 1832010

 パジャマから出てパジャマへ帰る遅日

                           山本純子

分の日も近づき東京もだんだんと日の暮が遅くなっている。仕事を終えてビルを出ても街がまだ明るいのがうれしい。パジャマのままで朝食をとり、出勤ぎりぎりに背広に着かえてあたふたと出てゆき、帰ってきてから普段の服へ着替える間もなくお風呂に入ってそのままパジャマになってしまう忙しいお父さんたち。背広とパジャマの入れ替わりでほとんど事が終わってしまう。たまたま早く帰ってもいつもの習慣でパジャマになってまずはビールと食卓についてテレビのスイッチを入れる。外はとみるとだいぶ暮れ方が遅くなったせいかまだまだ明るい。それなのに、早々とパジャマ姿になっているのがどこかおかしい。それにしても「遅日」という言葉にパジャマという軽快な響きがこんなに心地よいとは、この句を読んでの発見。夜のくつろぎの時間を過ごすのに部屋着派とパジャマ派がいるだろうけど、パジャマ派には過ごしやすいこれからの暖かさである。『カヌー干す』(2009)所収。(三宅やよい)


March 2532010

 犬の途中自分の途中花ふぶく

                           渋川京子

年この時期になるとどこの花を見に行こうか心が浮き立つ。うららかな空に満開の桜を仰ぐも束の間、強い風に舞っていっせいに桜が散る。あ、もったいないと思いつつ向かい風に花ふぶきを受けながら歩く豪華さはこの季節ならではのもの。この「途中」はいま花吹雪に向かって歩いている犬と自分の状態とともに、おおげさに考えるなら人生の途上ともとれるだろう。数十年生きてきた大人も生まれたての赤ちゃんも誰もが「いま」は人生の途中。隣にならんでいる犬だって、犬として生きている途中であることに変わりはない。いっせいに桜が舞う瞬間、犬とわたしの時間が交差する。犬がわたしであり、わたしが犬であるような親近感とともに何かに誘われて犬とともにここにある偶然の大きさを感じさせる句でもある。てくてくと行きつく先はどこなのかわからないけど、今ここで犬とともに受ける花吹雪がまぶしい。「眼鏡拭く引鳥千羽投影し」「さくら餅たちまち人に戻りけり」『レモンの種』(2010)所収。(三宅やよい)


April 0142010

 春園のホースむくむく水通す

                           西東三鬼

翹、雪柳、桜、と花々は咲き乱れ、木々の枝からは薄緑の芽がそこここに顔を出している。見渡せば柔らかな春の空気に明るく活気づいた景色が目を楽しませてくれる春の園、だのにこの俳人は地面に投げ出されたホースにじっと目を凝らしている。心臓の鼓動を伝える血管のように水の膨らみを伝えてうねるホース。「むくむく」と形容されたホースが生き物のようだ。三鬼の視線に捉えられると「春の園」も美しさや華やかさを演出するものではなく生々しく過剰な生命力が吹きだまった場所に思えてしまう。三鬼はともすれば俳句の器に収まりきれないこうした自分の資質を持て余したのかもしれない。戦後、三鬼の誓子への傾倒について高柳重信は「とかく俳句から逸脱してしまいそうな彼の言葉の飛翔力に対し、それは、とりあえず、たしかな俳句の原器であった」と述べている。それにしても亡くなった日がエープリル・フールとは、一報を受けた人たちは唖然としただろう。自分の死さえ茶化してしまったような三鬼の在りようは最後まで俳句の尋常をはみ出していたように思う。『西東三鬼集』(1984)所収。(三宅やよい)


April 0842010

 羽のある蛇を描きて日永かな

                           有馬朗人

野火、メキシコと題された中の一句。羽のある蛇はアステカの遺跡の壁画に残された絵なのだろうか。幾何学模様がエキゾチックなリズムとともに描き出されていることだろう。こうして「日永」という季語を合わさってみるとのんびりした春の季感を超えて、もっと長い長い時間へ巻き戻されてゆくようだ。羽のある蛇は人間が自分と動物・植物を分かつことなく畏敬の念をもって交わっていた時代、身近にいる蛇が空中を飛ぶとき羽が見えたのかもしれない。描かれた壁画を見ているのだろうが、「蛇を描きて」という言葉に眼の前で彩色しているのを眺めている気分になる。きっと作者は画を眺めながらワープしているのだろう。この句集ではそんな時間的混沌が季語と合わさって不思議な世界を紡ぎだしている。「春の雨悪魔の舌をぬらしけり」これも寺院の屋根にある彫像なのだろうが、おどろおどろしく長い舌を出して耳まで裂けた口でにやっと笑う悪魔の顔が春の雨の情緒を怪しいものに塗り替えている。『鵬翼』(2009)所収。(三宅やよい)


April 1542010

 くろもじで切るカステラや春の月

                           広渡敬雄

木林を散歩したとき淡い黄色の小花をつけた灌木を指差して「くろもじ」と教えてくれた人がいる。「くろもじ」は緑色の樹皮に黒い斑模様があるので、それを文字に見立ててこの名前がついたという。その木の名前そのままにフォークや小さなナイフ形の菓子楊枝に加工されたものも「黒文字」と呼ぶそうだ。ネットで調べると材質に香気があるので、水に浸して拭ってから使うといいと書いてあった。やわらかいカステラにぐっとはいる黒文字がしっとりとしたカステラ生地の弾力を感じさせる。ぼんやりと明るい春の月との調和もいい。どっしりとした「くろもじ」という言葉がカステラの軽さを引き立てている。そういえば、昭和30年代のカステラは高級菓子で、お使い物で来るカステラは桐箱に入っていた。今はケーキ一個の値段でカステラ一本買えたりするけど、あの上品な味わいは生クリームたっぷりの洋菓子にはないよさだ。食べ物の句は何より食欲をそそることが肝心、すぐにでも「カステラ」を買ってきて熱いお茶とともに食べたくなった。『ライカ』(2009)所収。(三宅やよい)


April 2242010

 春闌けてピアノの前に椅子がない

                           澤 好摩

アノの椅子はどこへ行ったのだろう。確かに、椅子のないピアノは間が抜けている。ピアノを弾こうとする立場からこの句を読めば、はて、とあたりを見まわす落ち着かない気分になる。立って弾いてもさわりぐらいは奏でられるかもしれないが、本格的に弾こうと思えば腕に力が入らない。やはりピアノは全身を使って奏でる楽器だろう。ただ椅子がないのが常態の姿と考えると、弾き手がいなくなって、見捨てられたピアノが巨大な物置場になって部屋にある様子が想像される。子供のためによかれと小さい頃からピアノをやらせたものの大きくなるにつれ面倒なピアノの練習を放り出して、見向きもしなくなるのはよくあるパターン。巣立った娘たちに置き去りにされたピアノは春の物憂さを黒光りする身体に閉じ込め、蓋を閉じたまま沈黙している。この春も終わろうとしているのに誰にも触られないまま古びてゆくピアノは孤独かもしれない。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


April 2942010

 祝辞みな未来のことや植樹祭

                           田川飛旅子

かつにもまだ今日が「みどりの日」だと思い込んでいた。本日掲載する例句を探していて平成19年から「みどりの日」が「昭和の日」になり、「みどりの日」は5月4日に移行したということに改めて気付かされた。とにかく休めたらいいや、と毎年やり過ごすうち名前が変わったことも忘れてしまったようだ。掲句は4月29日の「みどりの日」に行われた植樹祭を念頭に作られたのだろう。「みどりの日」という名前そのものは晩春から初夏の端境期にあって次の季節の明るさを先取りにしたなかなかいいネーミングだと思っていたけど、5月4日だとぴったりしすぎてぴんとこない。「昭和の日」は「激動の日々を経て復興をとげた昭和の時代を顧み、国の将来を考えるための国民の休日」と角川の俳句歳時記にはあるが、この頃は未来へ向かうより過ぎ去った時代を懐かしむほうへ傾いているようだ。昭和はそんなにいい時代だったろうか。襖一枚で行き来する大家族の生活は賑やかだったけど、自分だけの空間を持ちたいと願ったこともたびたびだった。学校の規律も乱れてはいなかったがはみだしものの悩みはそれなりに深かった。今はなかなか見通しが立たない時代だけど、掲句のように植樹し伸びてゆく樹木を寿ぐことで未来に向かう明るさを味わえたらと思う。『俳句歳時記・春』(2009・角川書店)所載。(三宅やよい)


May 0652010

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

緑の美しい季節になった。連休の2日目、陣馬山から景信山へ渡る尾根道から山の斜面を見下ろすと、古葉を落としみずみずしく生まれ変わる薄緑の若葉の茂りがはっきりと見て取れた。椎、樫、楠、欅、それぞれ樹皮の模様から枝ぶりまで多種多様で、ひとつひとつの名前を確かめながら、森や山をめぐるのは連休の楽しみのひとつ。イタリアのブルーノ・ムナーリの『木をかこう』という絵本にカシワの葉を良く見ると葉脈がカシワの木と同じかたちをしていると書かれている。樹形が葉脈に映し出されるなんて驚きだ。空へ大きく広げた枝を折りたたみ、折りたたみまとめるとその幹の太さになるとも。五月の光をいっぱいに受けながら茂りゆく木々にある不思議な法則。萌黄色の若葉を透かす眩しさに木の名前をだぶらせてその特徴ある樹形を、幹の手触りをいとおしみたい。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


May 1352010

 まむしぐさ蛇口をすこし開けてをり

                           新妻 博

むし草は山野草のひとつで有毒植物と、植物図鑑に記載がある。写真を見るとすっぽり伸びた花茎には紫の文様があり、それがまむしの柄と似通っているため、この名前がつけられたらしい。毒々しく赤い実がびっしりと詰まっている様子を見てもあまり気持ちのよい植物に思えない。一説ではまむしの出るところに生えているのでこの名前がついたともあり、あまり陽の当らないうっそうとした場所に顔を出すのだろう。それにしても掲句を読んで水道の蛇口って「蛇の口」って書くんだな、と改めて気付かされた。毎日「蛇の口」から出される水で煮炊きし、顔を洗い、口を漱いでいるわけだ。銀色に光る蛇口をすこしひねる何気ない動作も「まむし草」という植物と取り合わされることで、木下闇に三角の頭をもたげて口を少し開けている毒蛇と連想がかぶって、おどろおどろしい光景が映し出される。使い慣れている言葉も定型を生かした取り合わせによって迷宮へ降りてゆく入口が開くようで、こうした句を読むたび尽きせぬ興味を感じさせられる。『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)


May 2052010

 夏来る農家の次男たるぼくに

                           小西昭夫

をわたって吹く風が陽射しに明るくきらめいている。すっかり故郷とはご無沙汰だけど来週あたりは田植えかなぁ、机上の書類に向けていた視線をふっと窓外に移したときそんな考えがよぎるのは「農家の次男」だからか。この限定があるからこそ夏を迎えての作者の心持ちが読み手に実感となって伝わってくる。高野素十の句に「百姓の血筋の吾に麦青む」という句があるが、掲句のなだらかな口語表現はその現代版といった味わい。素十の時代、家と土地は代々長男が受け継ぐ習わしだった。次男、三男は出稼ぎいくか、新天地を開発するか、街で新しい仕事へ就くほかなかったろう。自然から離れた仕事をしていても身のうちには自然の順行に従って生活が回っていた頃の感覚が残っている。青々とつらなる田んぼを思うだけ胸のうちが波立ってくるのかもしれない。今は家を継ぐのは長男と決まっているわけではないが、いったん都会へ就職すると定年になるまでなかなか故郷へ帰れない世の中。そんな人たちにとって、老いた両親だけの農村の営みは常に気にかかるものかもしれない。ゴールデンウィークや週末の休みを利用して田舎へ帰り、田んぼの畦塗りに、代掻きに忙しく立ち働いた人達も多かったかもしれない「今日からは青田とよんでよい青さ」「遠い日の遠い海鳴り夏みかん」。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2752010

 雷が落ちてカレーの匂ひかな

                           山田耕司

はじめから天気が悪い。いよいよ雨の季節の到来だろうか。どしゃぶりの雨に空がゴロゴロ鳴り始めると犬が恐がって家中を走り回る。幼いころ裏庭の灯籠が雷の直撃を受けて真二つに裂けたことがある。落雷の瞬間の物凄い音と、翌日ぱっくり割れた石を見た恐ろしさは忘れない。今でも雨模様の空を遠くから雷が近づいてくると犬ばかりでなく落ち着かない気持ちになる。掲句を一読、落雷をカレーの匂いと結び付ける発想にびっくり。そう言われてみれば、ぴかっと落雷が落ちた瞬間、黄色っぽく照らし出される風景がカレーびたしに思えてくるから不思議だ。落雷への常套的な思い込みを捨てて感覚を働かせた結果、視覚が味覚へつながり奇抜に思える言葉が飛びだしてきたわけで、こちらも五感を働かせてイメージしてみればなかなか説得力がある。おじる気持ちも落雷なんて、カレーまみれになるだけさ、と思えば度胸がつくかも。掲句を含む句集には、そんな具合に楽しい大風呂敷があちこちに広げられている。「手をひつぱる鬼は夕焼け色だつた」「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」『大風呂敷』(2010)所収。(三宅やよい)


June 0362010

 階段のひとつが故郷ハーモニカ

                           長岡裕一郎

校の階段、二階へあがる家の階段、錆びた手すりのついた公園の階段。記憶の中にしまいこんでいたそれぞれの階段が胸のうちによみがえってくる。掲句には屋内に閉ざされた階段より子供の遊び場にもなる公園の階段が似つかわしい。無季の句には永遠に持続する時間と風景が隠されている。この句の場合、学校にも家にも置きどころのない心と身体を階段に寄せてハーモニカを吹いている少年のさびしさが想像される。くぐもった音色が感じやすい少年の心持ちをなぐさめてくれる。そんな感傷的なシーンには薄暮がしっくり調和する。「ハーモニカ」が引き金になって読み手の心にも二度と戻らない時への郷愁をかきたてるのだろうか、長い間手にしていないハーモニカのひやりとした感触を思い出して懐かしくなった。『花文字館』(2008)所収。(三宅やよい)


June 1062010

 おまへまで茹でてしまうたなめくぢり

                           西野文代

年の5月に西野文代さんが八十七回目の誕生日を迎えられた。それを記念して「爽波を読む会」に集まった仲間たちの鑑賞文を集めた『なはとびに』が上梓された。一読、作品の魅力を引きだす鑑賞の面白さと同時に選び出されている西野さんの俳句のおおらかさ、自在さに魅了された。掲句は青菜の裏についていたなめくじが、ぷかっとお湯に浮かびあがってきたのだろうか。「おまへまで」の「まで」に野菜を茹でるにも、はい食べさせてもらいますよ、熱いけどごめんなさいよ。と言った心持ちであり、それに加えて何も知らないで青菜を食べていたおまえまで茹でてしまうた、罪なことをしたなぁと語りかけているすまなさが感じられた。そんな作者の優しい気持ちが文語表記の柔らかさに生かされている。森羅万象、動物や虫たちのいのちと同等に付き合えるようになり、その気持ちがそのまま俳句になるには俳人としての修練以上に人としての年季が必要なのだろう。なめくじを見つけたら塩をかけて喜んでいる自分なんぞは到底その境地に至れそうにない。「なんぢ毛虫雨粒まみれ砂まみれ」「へちまぞなもし夜濯の頭に触れて」『なはとびに』(2010)所収。(三宅やよい)


June 1762010

 冷房のなかなか効かぬ男かな

                           渋川京子

場に男と女が争う原因のひとつがこれではないか、一読おかしくなった。クールビズの影響か、この頃はノーネクタイのサラリーマンをよく見かけるが、外回りから帰るやいなや暑い暑いと設定を「強」にして吹きつける冷風を浴び書類で顔を仰いだりする。体感温度そのものが違うのか家での冷房も「なかなか効かぬ男」と冷えすぎる女との間で闘いが浮上してくる。そんな背景も踏まえつつ、気が効かないのか態度がでかいのか、まわりが冷ややかな視線を向けているのに、そんな雰囲気をものともしない男を冷房の効かない男にかけているようで、何ともユーモラス。それでも、この「男」の部分を「女」に変えると洒落にならないように思う。女が男をからかうと同時に寄りかかる気分もあって、そのあたりの機微がこの句の味わいを演出しているのだろう。『レモンの種』(2009)所収。(三宅やよい)


June 2462010

 アロハシャツ似合へる夫の余生かな

                           木村たみ子

生を辞書で引くと「一生で(最盛期を過ぎて)残った命、生活」とある。いつからを余生と呼ぶのか、それを区切るのはあくまで本人だろうが、会社を退職し、毎日が日曜日という生活になじんでくるとこの言葉が実感として響いてくるかもしれない。現役時代はほとんどの時をネクタイと背広で過ごして、服装には無頓着な男の人も多い。退職して家にいるようになるとどんな格好をして過ごすのだろう。昔だとステテコにシャツのご隠居が夕涼みしている姿が定番として思い浮かぶが、団塊の世代はジーパンとスニーカーであちらこちら駆け回りそう。掲句のアロハシャツは夫自身の好みで選んだのか、家族からのプレゼントか。緑や赤の派手な模様の入ったアロハシャツを着こんで、籐椅子でカメラなどをいじっている夫。最後の「かな」の詠嘆にそのような静かな時間を二人で共有する喜びが表されているように思う。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)




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