武蔵野中央公園で連凧名人に遭遇。その数、なんと三百枚なり。(哲




2010蟷エ1譛11譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

January 1112010

 無造作に借りて巧みに羽根をつく

                           大串 章

うそう、ときどきいましたね、こういう「おばさん」が。いや「おじさん」かもしれないけれど、なんとなくもっさりした感じの大人に羽子板を貸してみたら、いやはや上手いのなんのって。凧揚げにもいたし、独楽回しにもいた。昔とった杵柄だ。「巧みに」つく人の風貌は描かれていないが、それは「無造作に」で言い尽くされている。「よし」と張り切るのでもなく、「よく見てなさい」とコーチじみたことを言うわけでもない。ごく当たり前の涼しい顔をして、難しいポイントからでも、ちゃんと相手の打ちやすいポイントへと羽根を打ち上げてくれるのだ。そして、少し照れくさそうな顔をしてさっさと引き下がる。格好良いとは、こういうことでしょう。それにしても、昨今は羽根つきする子供らの姿を見かけなくなった。他にもっと面白い遊びがあるからという説もあるが、その前に、遊ぶ場所がなくなったことが大きいと思う。道路は車に占領され、マンション住まいには庭もない。近所の学校だって、校庭は閉鎖されている。今日は成人の日。振袖姿のお嬢さんたちのなかで、正月の羽根つきを楽しんだことのある人は、ほんのわずかでしかないだろう。おそらくは皆無に近い。したがってこれからの時代には、もう掲句のような場面を詠み込んだ句は出現してこない理屈となる。『山河』(2010)所収。(清水哲男)


January 1012010

 歌留多会廊下の冷えてゐたりけり

                           岡本 眸

象そのものを鋭く詠うためには、正面から向かうのではなく、その裏へまわらなければならないと、創作の秘密を教えてくれているような句です。それにしても、歌留多会を詠おうとしているのに、廊下の冷たさに目が行くなんて、なんてすごい感性なんだろうと、あらためて驚かされます。あるいは作者の目は、はじめから冷え冷えと伸びた廊下のほうにあって、扉を隔てた向こう側の遊びのざわめきを、別世界のものとして聞いているのかもしれません。身体はここにあっても、心はつねにそれを俯瞰するような場所にある。ものを作る才能とは、つまりはそういうものなのかもしれません。歌留多といえば百人一首。思い出すのは、今は亡き私の父親が、子供の頃にカルタが得意で、よく賞品をせしめて家に持ち帰ったという話を聞かされたことです。老年にいたるまで、常に口数が少なく物静かな人でしたが、酒に酔うとときたま、この話を自慢げにしていました。貧しい時代に、家族のために賞品のみかんを手に、わくわくするような思いで家路をたどる少年の頃の父親の姿を、だからわたしも酔うと、想像するのです。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(松下育男)


January 0912010

 味噌たれてくる大根の厚みかな

                           辻 桃子

句なしに美味しそう。〈大根は一本お揚げ鶏その他〉の句と並んでいるが、いずれもとにかく美味しそうだ。この句の場合、味噌たれてくる大根、ときて、煮込んだ大根に味噌がかかっているのはわかるけれどまだそれだけで、厚みかな、としっかりした下五であらためてとろっと味噌がたれる。その絶妙の感覚が、こういう美味しそうな俳句の、写真にも文章にも真似のできない味わいだろう。じっくりこっくり煮込んだ大根に箸をゆっくり入れる。その断面にたれてくる味噌の香りと大根の匂いや湯気までが、それぞれの読み手の頭の中に映像として結ばれて、そのうちの何人かは、あ〜今日は大根煮よう、と思うのだ。この作者の、これまで増俳に登場した句には〈秋風やカレー一鍋すぐに空〉〈アジフライにじゃぶとソースや麦の秋〉などがあり、料理上手な作者が思われる。「津軽」(2009)所収。(今井肖子)




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