ピーヨピーヨとうるさいヒヨドリも、たまには孤独な表情を見せる。(哲




2010ソスN1ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1312010

 手を打つて死神笑ふ河豚汁

                           矢田挿雲

はしかるべき店で河豚を食べる分には、ほとんど危険はなくなった。むしろ河豚をおそるおそる食べた時代が何となく懐かしい――とさえ言っていいかもしれない。それにしても死神が「手を打つて」笑うとは、じつに不気味で怖い設定である。あそこに一人、こちらに一人という河豚の犠牲者に、死神が思わず手を打って笑い喜んだ時代が確かにあった。あるいはなかなか河豚にあたる確率が低くなったから、たまにあたった人が出ると、死神が思わず手を打って「ありがてえ!」と喜んだのかもしれない。落語の「らくだ」は、長屋で乱暴者で嫌われ者のらくだという男が、ふぐにあたってふぐ(すぐ)死んでしまったところから噺が始まる。同じく落語の「死神」は、延命してあげた男にだまされる、そんな間抜けな死神が登場する。アジャラカモクレンキューライス、テケレッツノパー。芭蕉にはよく知られた「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」と胸をなぜおろした句がある。西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」という、いかにも三鬼らしい傑作があるし、吉井勇には「極道に生れて河豚のうまさかな」という傑作があって頷ける。強がりか否かは知らないけれど、河豚の毒を前にして人はさまざまである。挿雲は正岡子規の門下だった。大正八年に俳誌「俳句と批評」を創刊し、俳人として活躍した時期があった。ほかに「河豚食はぬ前こそ命惜みけれ」という句もある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(八木忠栄)


January 1212010

 建付けのそこここ軋む寒さかな

                           行方克巳

書に「芙美子旧居」とあり、新宿区中井に残る林芙美子の屋敷での一句。芙美子の終の住処となった四ノ坂の日本家屋は、数百冊といわれる書物を読み研究するのに六年、イメージを伝えるために設計者や職人を京都に連れていくなどで建築に二年を費やしたという、こだわり尽くした家である。彼女は心血を注いだわが子のような家に暮らし、夏になれば開け放った家に吹き抜ける風を楽しみ、冬になれば出てくるあちこちの軋みも、また愛しい子どもの癖のように慈しんでいたように思う。掲句の「寒さ」は、体感するそれだけではなく、主を失った家が引き出す「寒さ」でもあろう。深い愛情をもって吹き込まれた長い命が、取り残された悲しみにたてる泣き声のような軋みに、作者は耳を傾けている。残された家とは、ともに呼吸してきた家族の記憶であり、移り変わる家族の顔を見続けてきた悲しい器だ。芙美子の家は今も東西南北からの風を気持ち良く通し、彼女の理想を守っている。〈うすらひや天地もまた浮けるもの〉〈夜桜の大きな繭の中にゐる〉『阿修羅』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1112010

 無造作に借りて巧みに羽根をつく

                           大串 章

うそう、ときどきいましたね、こういう「おばさん」が。いや「おじさん」かもしれないけれど、なんとなくもっさりした感じの大人に羽子板を貸してみたら、いやはや上手いのなんのって。凧揚げにもいたし、独楽回しにもいた。昔とった杵柄だ。「巧みに」つく人の風貌は描かれていないが、それは「無造作に」で言い尽くされている。「よし」と張り切るのでもなく、「よく見てなさい」とコーチじみたことを言うわけでもない。ごく当たり前の涼しい顔をして、難しいポイントからでも、ちゃんと相手の打ちやすいポイントへと羽根を打ち上げてくれるのだ。そして、少し照れくさそうな顔をしてさっさと引き下がる。格好良いとは、こういうことでしょう。それにしても、昨今は羽根つきする子供らの姿を見かけなくなった。他にもっと面白い遊びがあるからという説もあるが、その前に、遊ぶ場所がなくなったことが大きいと思う。道路は車に占領され、マンション住まいには庭もない。近所の学校だって、校庭は閉鎖されている。今日は成人の日。振袖姿のお嬢さんたちのなかで、正月の羽根つきを楽しんだことのある人は、ほんのわずかでしかないだろう。おそらくは皆無に近い。したがってこれからの時代には、もう掲句のような場面を詠み込んだ句は出現してこない理屈となる。『山河』(2010)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます