JALの事実上倒産で、どれほど多くの中小業者が泣きをみることか。(哲




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January 1712010

 冬の虹貧しき町を吊り上げる

                           田淵勲彦

は、ほかの季節よりも空中のものに意識が向かいます。毎夜10時過ぎに犬の散歩に出かけるわたしは、綱に引きずられながらも、いつのまにか冬空に輝く星にうっとりと見入ってしまいます。ほかの季節には、夜空のことなんてちっとも気にならないのに。本日の句は星ではなく、もっと近くに、そしてもっと鮮やかに現れてくる虹を詠っています。虹を、クレーンのように見据えて、空高くに何物かを持ち上げているように感じることは、それほど珍しいことではないのかもしれません。それでも読んだ瞬間に、ふっと小さく驚いてしまうのは、読者の読みそのものが、足元をすくわれて、空に持ち上げられたかのような気持ちのよさを感じるためなのです。冷たい空気が、句のすみずみにまで行渡っているような、透明感のある作品になっています。この句で特に好きなのは、「貧しき」という語のひそやかさです。ひたすら地べたにしがみついている生命のけなげさを、やさしく表しているようです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年12月28日付)所載。(松下育男)


January 1612010

 風花のかかりてあをき目刺買ふ

                           石原舟月

花は天泣(てんきゅう)とも呼ぶという。先日、富士山を正面に見ながら、ああこれがまさに風花、という中に居た。空は青く日が差して空気は冷たく、大きさも形もまちまちにきらきら落ちてくる風花は、たしかに天がきまぐれにこぼした涙のようだった。風花という言葉そのものに情趣があるので、あ、風花、と思うばかりでなかなか句にならなかったけれど、富士の冠雪と青空と光のかけらのような雪片の印象は深く残っている。積もるわけではもちろんなく、かといって春の雪のように濡らしながらすぐ消えてしまうというのでもなく、冷たさを持ちながら、掲出句の場合は外で売られている目刺の上に、その気ままなかけらがとどまっていたのだろう。目刺の青のひんやりとした質感ときりりと青い空。買ふ、と詠むことで作者の位置がはっきりして、生き生きとした一句となった。「図説 俳句大歳時記 冬」(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 1512010

 蓮田出る脚こんなにも長きこと

                           今瀬剛一

根堀りが、泥に足を取られてなかなか動けず難儀している状態を詠んだ句。「こんなにも重きこと」だと句の趣は一変する。足取りが重いというのは成句になるから平凡。「長きこと」と、重さを長さに転じたところに発見とウィットがある。蓮田を見ているとあんなところに入って蓮根を採るのは大変というか割の合わない仕事に見えるが、それなりに採算が合っているからつづけているのだろう。田の仕事などが機械化した中で、蓮根堀りも今は機械の仕事になっているのだろうか。以前のままなのだろうか。同じ作者に「着ぶくれし身をつらぬいて足二本」もある。こちらの方はモコモコに膨らんだ体を支えている足を客観視している。『花神現代俳句・今瀬剛一』所収(1996)所収。(今井 聖)




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