知る人ぞ知る「銀花」が休刊へ。不況と紙媒体離れには勝てないと。(哲




2010蟷エ1譛18譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

January 1812010

 木葉髪馬鹿は死ななきや直らねえ

                           金子兜太

きだなあ、この句。若い頃には抜け毛など気にもかけないが、歳を重ねるうちに自然に気になるようになる。抜け毛にもだんだん若い日の勢いがなくなってくるので、まさに落ちてきた木の葉のごとしだ。見つめながら「オレもトシ取ったんだなあ」と嘆息の一つも漏れてこようというもの。しかし、この嘆息の落とし所は人さまざまである。草田男のように「木の葉髪文芸永く欺きぬ」と嘆息を深める人もいれば、掲句のようにそれを「ま、しょうがねえか」と磊落に突き放す人もいる。生来の気質の違いも大きかろうが、根底には長い間に培ってきた人生に対する態度の差のほうが大きいと思う。掲句を読んで「いかにも兜太らしいや」と微笑するのは簡単だが、その「兜太らしさ」を一般読者に認知させるまでの困難を、クリエーターならわかるはずである。嘆息の途中に、昔の子供なら誰でも知っていた廣澤虎造『石松代参』の名科白を無造作に放り込むなんてことは、やはり相当の大人でないとできることではない。この無技巧の技巧もまた、人生への向き合い方に拠っているだろう。金子兜太、九十歳。ますますの快進撃を。ああそして、久しぶりに虎造の名調子を聴きたくなってきた。例の「スシ食いねえ…」の件りである。「俳句界」(2009年1月号)所載。(清水哲男)


January 1712010

 冬の虹貧しき町を吊り上げる

                           田淵勲彦

は、ほかの季節よりも空中のものに意識が向かいます。毎夜10時過ぎに犬の散歩に出かけるわたしは、綱に引きずられながらも、いつのまにか冬空に輝く星にうっとりと見入ってしまいます。ほかの季節には、夜空のことなんてちっとも気にならないのに。本日の句は星ではなく、もっと近くに、そしてもっと鮮やかに現れてくる虹を詠っています。虹を、クレーンのように見据えて、空高くに何物かを持ち上げているように感じることは、それほど珍しいことではないのかもしれません。それでも読んだ瞬間に、ふっと小さく驚いてしまうのは、読者の読みそのものが、足元をすくわれて、空に持ち上げられたかのような気持ちのよさを感じるためなのです。冷たい空気が、句のすみずみにまで行渡っているような、透明感のある作品になっています。この句で特に好きなのは、「貧しき」という語のひそやかさです。ひたすら地べたにしがみついている生命のけなげさを、やさしく表しているようです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年12月28日付)所載。(松下育男)


January 1612010

 風花のかかりてあをき目刺買ふ

                           石原舟月

花は天泣(てんきゅう)とも呼ぶという。先日、富士山を正面に見ながら、ああこれがまさに風花、という中に居た。空は青く日が差して空気は冷たく、大きさも形もまちまちにきらきら落ちてくる風花は、たしかに天がきまぐれにこぼした涙のようだった。風花という言葉そのものに情趣があるので、あ、風花、と思うばかりでなかなか句にならなかったけれど、富士の冠雪と青空と光のかけらのような雪片の印象は深く残っている。積もるわけではもちろんなく、かといって春の雪のように濡らしながらすぐ消えてしまうというのでもなく、冷たさを持ちながら、掲出句の場合は外で売られている目刺の上に、その気ままなかけらがとどまっていたのだろう。目刺の青のひんやりとした質感ときりりと青い空。買ふ、と詠むことで作者の位置がはっきりして、生き生きとした一句となった。「図説 俳句大歳時記 冬」(1965・角川書店)所載。(今井肖子)




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