馬齢を重ねているうちに、また生まれ月がめぐってきた。やれやれ。(哲




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February 0122010

 海豹のやうな溜息二月なり

                           渡辺乃梨子

月といえば、間近の春を待つ心情を詠んだ句の多いなかで、この句は違う。あわただしく動き回っているうちに、ふと気づけば、もう二月になってしまったのかという焦燥感のあらわれた句だ。だからついて出る溜息もかそけきそれではなくて、さながら「海豹(あざらし)」の鳴き声のように荒々しいものになったというのである。私も父の緊急入院以来、こんな溜息を何度かもらした。もらした瞬間に、喉の奥がごおっという感じで鳴るのである。経過は順調で週末には退院できそうだが、これを幸いと言うにはその後に問題が山積しすぎているからだ。長生きも考えものだな。などと、親不孝な想念も思わずわいてきてしまう。どなたでもそうだろうが、かといって急に介護一辺倒の生活に切り替えるわけにもいかず、しかし現実は容赦なく進行するばかりなのだから、本音のところでははただうろうろおろおろするばかり。我ながら情けないとは思うけれど、出るのは海豹のような溜息ばかりなりである。そして、四日は早や立春。どんな春になるのかなあ。俳誌「梟」(2009年3月号)所載。(清水哲男)


January 3112010

 雪の夜の紅茶の色を愛しけり

                           日野草城

茶を詠った句は、どれも読んでいてあたたかな気持ちになります。特に、ことさら赤い「色」に注目したのは、つめたい雪の「白」や、部屋をつつむ夜の「黒」と対比したもので、たしかに紅茶というのは、その熱を色にまで素直に表しているものなのだなと、あらためて感心してしまいます。かつてこの欄で、三宅さんが採り上げた「雪降ってコーヒー組と紅茶組」(中原幸子)の句にも感じたことですが、この世には、わたしたちをそっと支えてくれるものが、あらかじめきちんと用意されているものだなと、つくづく感じるわけです。わたしが紅茶を飲むのは、この句とは違って通勤前のあわただしい朝の数分です。トーストを頬張った後に、砂糖もなにも入れない紅茶を流し込むように飲んでから、気合を入れて会社に向かうわけです。この句のように、ゆったりとした言い方はできませんが、日々のはじまりに背中を押してくれるこの飲み物を、わたしだって深く愛しています。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


January 3012010

 一筋の髪が手に落ち春隣

                           山西雅子

のところの東京は、突然Tシャツ一枚で歩けるような陽気かと思えば翌日はダウンジャケットを着込む有様で、次々咲く近所の梅に、明日はまた真冬の寒さだからその辺で止めておかないと、と思わず話しかけたくなるほど。春待つ、のひたすらな心情に比べて、春隣、には、ふと感じて微笑んでしまうほのぼの感がある。そう考えるとこの句の髪は、作者自身の髪ではないのかもしれない。たとえば子供の髪をとかしてやっていて、やわらかく細い髪が手のひらの上で光っているのを見た時、そんな「ふと」の一瞬が作者に訪れたのではないだろうか。そういえば重なっているイ音にも、口元がついにっこりしてしまうのだった。〈マフラーを二巻きす顎上げさせて〉〈冬木に根あり考へてばかりでは〉『沙鴎』(2009)所収。(今井肖子)




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