厚労省が職場の禁煙義務付け。あれもこれもダメと国民は子供扱いか。(哲




2010ソスN2ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0822010

 春うつらくすりの妻の名で呼ばれ

                           的野 雄

院では患者当人ではなくても、付き添いや見舞い客などの人を患者のフルネームで呼ぶ場合が多い。今回の父の入院で、私も何度も父の名で呼びかけられた。慣れてしまえば何ということもないのだろうが、なんだか妙な心持ちになってしまう。句の作者は、妻の薬を受け取りにきたのだろう。だいぶ待たされるので、つい「うつら」としてしまった。で、ようやく窓口から呼ばれたときには妻の名前なものだから、「うつら」の頭ではすぐには反応できない。呼ばれたような気もするのだが……と逡巡するうちに、今度ははっきりと妻のフルネームが聞こえて、あわてて立ち上がったのである。微苦笑を誘われる句だけれど、私も作者と似た環境にあるので、微苦笑とともに自然に溜息も出てくる。句集には「主夫」という言葉が何度も出てくるから、奥様はかなり長患いのようだ。同じ句集に「想定外妻に梨剥く晩年など」があり、また「逃亡めく主夫に正月と言うべしや」がある。お大切に。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)


February 0722010

 しら魚や水もつまめばつままるる

                           鶴海一漁

しかに、しら魚の体の色は透明なのだなと、あらためて驚いてしまいます。でもそれを言うなら、水が透明なのだってずいぶん変わったことであるわけです。透明なものがこの世にあるということは、わかっているようでどこかわからないところがあります。水の中に指先を入れて、なにもないところを二つの指ではさんで持ち上げれば、それはしら魚だった、ということをこの句は詠っているのでしょうか。でも読んでいるとつい、水そのものをつまむことができるような錯覚をしてしまいます。柔らかな液体をつまむ、という行為の美しさに、一瞬うっとりとしてしまいます。目をぐっと近づけて、この句をじっくりと見つめてしまうのは、だから仕方のないことかもしれません。読者を惹きつける、目に見えないものがそっとかけられているのではないのかと。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


February 0622010

 春浅し心の添はぬ手足かな

                           多田まさ子

にが嫌、というわけでもなく、どこか具合が悪い、というわけでもなく、今日も朝から忙しく働いて1日が過ぎる。これ以上青くはなれない二月の空、ひとあし先に春めいてきた日差しとまだまだ冷たい風。そんな季節の狭間の戸惑いに、内なる戸惑いが揺り動かされ、静かに作者の中に広がる。春の華やぎの中で感じる春愁より、季節も心持ちも茫洋としてつかみどころがない。でも風が冷たい分、その心情はすこし寂しさが強いように思う。ともかく、しなければならないことが山積みでゆっくり考えているヒマがないことが良いのか悪いのか。ただ、こうして動いている手足は自分のもので、これからはだんだん暖かくなっていくのだ、ということは確かなのである。『心の雫』(2009)所収。(今井肖子)




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