hD[OEiEYB[句

February 0922010

 切断されし指を感ずる木々芽吹く

                           ドゥーグル・J・リンズィー

春を過ぎ、光りが存分にあふれる頃になると、あちらこちらの梢の先がほの赤く染まっているのを意識する。木々の芽吹きを思うと、亀が手足を出すにも似て、もそもそっとくすぐったい心地となる。葉を落し、ふたたび芽吹く木の循環。幹を身体にたとえれば、払い落した指の場所からまた指先が生えてくるようだと、言われてみれば確かにそうで、前述の亀の想像よりずっと実感を伴う感触に襲われる。海洋学者でもある作者は、切断されたのち、いともたやすく再生することができるタコやヒトデなどの海洋生物と向き合っており、木々もまたそれほど遠くない生きものに映っているのかもしれない。引きかえ、ほとんど再生不能な人間が苦しいほど不器用に生きているように見えてくる。〈胎盤の出来るころなり薄ごほり〉には第二子懐妊の前書がある。日々の多くを海の上(というか深海)で過ごしている作者の遠隔地からの季感の訴えには、妻や子の暮らす地上への強い思いとともにあるようだ。〈我が船の水脈を鯨が乱しけり〉『出航』(2008)所収。(土肥あき子)


April 0542013

 肛門が口山頭火忌のイソギンチャク

                           ドゥーグル・J・リンズィー

うか、肛門イコール口の生物もいるんだ。それが山頭火の生き方と重なる。なんて大胆で微妙な比喩だろう。山頭火の風貌や生き方、その短所も長所もひっくるめての肛門イコール口だ。こういう句はアタマの発想では出てこない。言葉から発する連関では出てこない。実際のイソギンチャクを目の前にして、じっと見て、見尽くして出てくる発想だ。もちろん知識も動員されている。この句を見たら芭蕉も子規も茂吉もうなずくに違いない。虚子はどうかなあ。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます