放送時代、タレント宛にチョコの山。誰も食べなかった。危険だからね。(哲




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February 1422010

 春の日やポストのペンキ地まで塗る

                           山口誓子

の句に詠まれているポストは、スタイルのよい最近の一本足のものではなく、ずんぐりむっくりとしていて、厚い石でできた昔ながらのものなのでしょう。ドカンと地面に設置されたポストの、頭のほうから真っ赤なペンキを塗り始めたのでしょうが、下の方まで塗っているうちに、うっかり地面まで赤く塗ってしまったというわけです。作者は、塗っている作業を隣で見ていたというよりも、夕方の散歩の折にでも、通りすがりに新しいポストを見つけ、ペンキが恥ずかしそうにはみ出しているのを見つけたのです。そんなことだってあるさ、人間、そんなにきっちりとしなくてもいいじゃないかと、春の陽気が肩をたたいてくれているようです。私の年齢では、この句は、どこか吉田拓郎の「♪もうすぐ春が/ペンキを肩に/お花畑の中を/散歩に来るよ♪」という歌を思い出させてくれます。あたたかな陽気に、心まではみ出してしまっているような、そんな気分になります。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


February 1322010

 凍解の土いとほしく納骨す

                           山田弘子

の一月父の納骨の際、墓の石蓋をあけて、祖母と祖父の骨壺が土の上に置かれているのを見てちょっと驚いた。何が根拠なのかはわからないが勝手に、中も石でできているような気がしていたからだ。十数年、日のあたることのなかった墓石の下の土は、三つ目の骨壺をやわらかく包んでまた眠りについた。作者がご主人を亡くされたのは、2001年の冬とうかがっている。やはり納骨の時、黒々と湿った土を目の当たりにされたのだろう。それを凍解の土、と詠まれたところに、妻としての心持ちと俳人としての目の確かさとが織りなす詩情がある。いとほしく、の一語が、少しの涙とともに土の上にほろほろとこぼれ、永遠の眠りについた魂をつつんだことだろう。花につつまれた祭壇の遺影は、呆然としている私達に、いつも通り明るく微笑んでおられた。「肖子ちゃんの句いいわよ、これからはあなた達が頑張って」。俳句を始めてからいろいろへこむことも多い私は、お目にかかるたびに励まされた、お世話になってばかり。頑張ろう、とあらためて心に誓いつつ、合掌。「彩 円虹例句集」(2008)所載。(今井肖子)


February 1222010

 弾道や静かに暮るる松の花

                           秋山牧車

車はぼくしゃ。戦後すぐ「寒雷」の編集長。その後、長く同人会長を勤めた。昭和17年に加藤楸邨に師事。陸軍中佐。大本営陸軍部報道部員として「大本営発表」に関わる。戦後加藤楸邨は中村草田男から、軍高官を自誌に置いて便宜を図ってもらったと非難を受ける。いわゆる戦争責任の追及である。しかもその高官を戦後も同人として遇しているのは何故かとの問であった。高官とは秋山牧車とその兄本田功中佐、及び、清水清山(せいざん)中将。軍人高官だからといって側に置いて便宜を図ったもらったことはないと楸邨は反論。(当時「寒雷」にはさまざまな職業、主義主張を持った人々がいた。例えば赤城さかえ、古澤太穂などのコミュニストもいた)その言葉を裏付けるように、楸邨は戦後もこの三人を「寒雷」の仲間として他の同人、会員と同様に扱った。これには楸邨の意地も感じる。この句は大戦末期、敗色濃いマニラに陸軍報道部長として派遣され、後に処刑される山下奉文大将と山中に立てこもった折の句。「弾道や」の危機感と中七下五の静謐な自然との対照が武人としての「胆」を感じさせる。『山岳州』(1974)所収。(今井 聖)




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