独ドレスデンでネオナチ行進阻止の人間の鎖。娘も参加したようだ。(哲




2010ソスN2ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1622010

 北窓を開きて船の旅恋ふる

                           西川知世

港地と洋上を繰り返し進む船旅は、地球をまんべんなくたどるという醍醐味をしっかり味わうことができる旅だろう。雲の上をひとっ飛びして目的地へ到着する時短の旅とは違う贅沢な豊かさがある。冬の間締め切ったままにしてあった北窓を開き、船の旅を恋うという掲句には、招き入れた春の光りのなかに開放的になった自身の心のありようを重ねている。船の小さい窓から波の向こうに隠れている未知の地を思い描くおだやかな興奮が、これから春らしさを増す未知なる日々への期待に似て胸を高鳴らせているのだ。深く沈んだような北向きの部屋が、明るい日差しのなかでひとつひとつを浮かびあがらせ、きらきらと光るほこりの粒さえ、新鮮な喜びに輝いて見えるものだ。そして、そんな幸せに囲まれたときほど、どこか遠くへの旅を無性に恋うものなのである。〈母に客あり春の燈のまだ消えず〉〈硝子屋の出払つてゐる夏の昼〉『母に客』(2010)所収。(土肥あき子)


February 1522010

 さわやかに我なきあとの歩道かな

                           清水哲男

節外れの句で失礼。「さわやか(爽やか)」は秋の季語。今と違ってこのページをひとりでやっていたときに、毎年の誕生日には、自分の句のことを書いていた。自句自解なんて、大それた気持ちからではない。言うならば、自己紹介みたいな位置づけだった。今年はたまたま今日に当番が回ってきたので、同じ気持ちで……。自分の死後のことを漠然と思うことが、たまにある。べつに突き詰めた思いではないのだけれど、死は自分が物質に帰ることなのだから、実にあっけらかんとした現象だ。そこに残る当人の感情なんてあるわけはないし、すべては無と化してしまう。その無化を「さわやか」と詠んだつもりなのだが、こう詠むことは、どこかにまだ無化する自分に抗いたいという未練も含まれているようで、句そのものにはまだ覚悟の定まらない自分が明滅しているようである。この句を同人詩誌「小酒館」に載せたとき、辻征夫が「辞世の句ができたじゃん」と言った。ならば「オレは秋に死ぬ運命だな」と応えたのだったが、その辻が先に逝ってもう十年を越す歳月が流れてしまった。この初夏、余白の仲間を中心に、辻の愛した町・浅草で偲ぶ会がもたれることになっている。『打つや太鼓』(書肆山田・2003)所収。(清水哲男)


February 1422010

 春の日やポストのペンキ地まで塗る

                           山口誓子

の句に詠まれているポストは、スタイルのよい最近の一本足のものではなく、ずんぐりむっくりとしていて、厚い石でできた昔ながらのものなのでしょう。ドカンと地面に設置されたポストの、頭のほうから真っ赤なペンキを塗り始めたのでしょうが、下の方まで塗っているうちに、うっかり地面まで赤く塗ってしまったというわけです。作者は、塗っている作業を隣で見ていたというよりも、夕方の散歩の折にでも、通りすがりに新しいポストを見つけ、ペンキが恥ずかしそうにはみ出しているのを見つけたのです。そんなことだってあるさ、人間、そんなにきっちりとしなくてもいいじゃないかと、春の陽気が肩をたたいてくれているようです。私の年齢では、この句は、どこか吉田拓郎の「♪もうすぐ春が/ペンキを肩に/お花畑の中を/散歩に来るよ♪」という歌を思い出させてくれます。あたたかな陽気に、心まではみ出してしまっているような、そんな気分になります。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます