余白句会。兼題は「荒布」「灌仏会」「谷中(要季語)」。難題だ。(哲




2010ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022010

 待てば来る三月も又幸せも

                           川口咲子

京は二月に入って雪続き。余寒どころではない寒さだけれど、春の雪はすぐ日差しに吸われて消えていく。二月の学校は、中学入試に始まって学年末の慌ただしさに新年度の準備の開始、高三の入試結果の悲喜こもごもと忙しない。三月は別れの季節であり、まだまだ冷えこむことも多いけれど、一日ごとに空の色が変わっていくのを確かめながら花を待つ毎日は、心楽しいものだ。春は必ず来る、と言われても、私には春は来ない、なんて気持ちになることがある。でも、三月は確かに、必ず待てば来る。三月も、で一呼吸入れて読んでみると、自分自身に言いきかせているような、かみしめるような、幸せ、ということばが、三月、の具体性によって、向こうからにこにこ近づいてきてくれそうな気がしてくる。句集名の『花日和』(2001)も、幸せを感じさせる言葉だ。(今井肖子)


February 1922010

 親雀巣を出て遠く志す

                           山口誓子

子の句は句の立姿が美しい。僕にはそう見える。どんなにきちんと音律が整っていても類型的な情緒が盛られていては、ああ、また諷詠ですか、古いモダンですかと思ってしまう。作者としてのあなたはほんとうにそれで新しい自分がその一句に刻印されていると思うのですかと読者としての僕が問うとき誓子の句の多くはこれが私の考えている俳句ですと返してくれる。僕はそれに納得がいき、その返答を誓子の型の中にみる。そのとき美しいと思うのだ。親雀は子育ての本能からか、餌を求めて遠くまで行動範囲を広げる。校庭のような広いところでいつも餌をやっているとわかる。パン屑を咥えては巣のある一定方向にとび、しばらくしてまた帰ってくる。子育てのときの距離が長いのは、同じ雀が帰ってくる時間でわかる。見える事柄の「写生」から入って、次に妻子をもってこそ一人前だというような寓意に入る。最初から寓意や批評性を意図する作品と、結果的に寓意に到る作品。その順序は俳人の品位と才能にかかっている。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)


February 1822010

 人を見る如く椿の花円く

                           岸本尚毅

ぶりな侘介が咲き終わり、これからは華やかな椿の出番になる。椿は古くから日本で愛されてきた花。植物辞典によると花の真ん中の雄蕊の基部と花弁が合着しているので、咲き切った花の形のまま落ちるとある。「赤い椿白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)「落椿とは突然に華やげる」(稲畑汀子)のようにどちらかというと咲いている姿より落ちる姿が俳句では詠まれることが多かったように思う。くっきりと咲いている椿は自己主張が強すぎて詠みにくいのかもしれない。掲句では花を見るのではなく花から見つめられている、と見方を逆転させることで黄色く大きな花芯を持つ椿の存在感と気配を感じさせる。最後の「円く」という言葉がこの花の持つ柔らかさと温かみを表しているようだ。『感謝』(2009)所収。(三宅やよい)




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