日本語電子書籍の未来は。私はモニターで文字を読むのに違和感無し。(哲




2010ソスN2ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2522010

 江ノ島のガソリン臭き猫の恋

                           須藤 徹

夜も近所の野良猫や飼い猫たちが入り乱れて悩ましい声で呼び合っている。まだ寒いじゃないか、と蒲団にもぐりつつ思うけど鳴き始める猫たちは本能で春を感知しているのだろう。「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)の句にあるようにひたすらに恋に打ち込む猫がいとおしくもあり、滑稽でもある。家に猫を飼う人達にとっては気が揉める時節の到来だろう。春浅き江の島に車を飛ばして押し寄せてくる若いカップル。その車の下に潜む恋猫。その見つけどころに、「ガソリン臭き」とかぶせたところに現実味が漂う。それでいて猫の恋がちょっぴり抒情的であるのは背景に潮の香りが広がるからか、その二つの匂いが入り混じって忘れ難い印象を残す。掲句が作られてから10数年経過した今、江の島のバイク族も車もめっきり少なくなったことだろう。恋も体当たりだった行動派からメールやパソコンで恋情をやりとりする若者たちへ。匂いもなくどこか無機質なその恋愛と猫の恋をだぶらせようとしても、もはや遠いかもしれない。『幻奏録』(1995)所収。(三宅やよい)


February 2422010

 大井川担がれて行く冬の棺

                           榎本バソン了壱

井川は静岡県中部から駿河湾に注ぐ、全長百六十八キロの川。その昔、架橋や渡船が禁じられていた川だから、人足が肩車や輦台(れんだい)で渡したことで知られる。担がれて渡るのは人ばかりではなく、棺だって担がれて渡ったであろう。冬の水を満々とたたえた、流れの速い大河を、棺がそろそろと慎重に担がれて行く。寒々とした冬である。命知らずの猛者たちが棺を担いで渡る様子が、大きなスケールと高いテンションを伴って見えて印象深い。掲出句は本年1月に刊行されたバソン了壱の第一句集『川を渡る』のなかの一句。東京から京都の大学へ通う新幹線が渡る百十一の川をネットで確認し、番外一句を加えて川を詠みこんだ百十二句の俳句を収めている。尋常ならざるアイディアと、尋常ならざる俳句の人である。しかも、全句を多様なスタイルの筆文字(左利き)で自ら書いたという、コンパクトでユニークな句集である。「小さな事件に悩み、喜んでいるささやかな自分を川という鏡に映して、反問している」、それが句集全般を支配している、と前書で本人は述懐している。掲出句よりもバソン了壱らしい句は、むしろ「秋刀魚焼く女の脂目黒川」とか「安藤川一二三アンドゥトロワ」などのほうにある、と言っていいかもしれない。ともかく、「冬の棺」が担がれ去って行くことで、いよいよ冬も去り春が近いことを暗示している。もう二月尽。『川を渡る』(2010)所収。(八木忠栄)


February 2322010

 仕事仕事梅に咲かれてしまひけり

                           加藤かな文

分だ八分だと大騒ぎの態の桜と違い、梅はいたって静かにほころびる。掲句は通勤途中のものか、あるいはもっと身近な庭の一本かもしれず、それほど梅はふっと咲くものだ。そろそろ冬のコートを脱ごうかと見回した視線でみつけたものか、ともかく「咲かれてしまった…」とつぶやく胸のうちは、自覚していた時間との落差が突如現れたような途方に暮れた感がある。まだ本年という年号にも馴染まぬうちに、もうすっかり春になろうとしているのだ。作者は四十代の男性。世にいう働き盛りの毎日は、小さな時間のブロックを乗り越えていくうちに、またたく間に月日が過ぎてしまうものである。そして、その無念さはどの花でもなく梅でこそ、ぽつんと取り残された心地が表現できたのだと思う。ちなみに都内では「せたがや梅まつり」は2/28、「湯島天神梅まつり」は3/8まで。清らかな梅の香りを楽しむ時間は、もう少し残されている。『家』(2009)所収。(土肥あき子)




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