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March 0332010

 雛買うて祇園を通る月夜かな

                           若山牧水

日は桃の節句、雛祭り。本来は身体のけがれを形代(かたしろ)に移して、川に流す行事だったという。のちに形代にかえて、雛人形を家に飾るようになった。女児を祝う祭りとなったのは江戸時代中頃から。掲出句は雛を買うのだから、三月三日以前のことである。酒好きな牧水のことゆえ、京の町のどこぞでお酒を飲んでほろ酔い機嫌。買った雛人形を大事に抱えて(いつもなら、酒徳利を大事に抱えているのだろうが)、今夜は月の出ている祇園を、ご機嫌で鼻唄でもうたいながら歩いて帰るところかもしれない。雛人形も、祇園の町も、照る月も、そして自分も、すべて機嫌がいいという句である。滅多にない幸福感。「通る」は一見平凡な表現のように思われるけれど、少々心もふくらんで「まかり通って」いる状態なのかもしれない。この句からは、誰もが「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」(晶子)を想起するかもしれない。しかし、この句の場合は「よぎる」よりも「通る」のほうが、むしろさっぱりしていてふさわしいように思われる。短歌と俳句は両立がむずかしいせいか、俳句を作る歌人は昔も今も少ない。それでも齋藤茂吉や吉井勇、会津八一をはじめ何人かは俳句を残している。牧水の句も多くはないけれど、他に「一すじの霞ながれて嶋遠し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 18122013

 月一つ落葉の村に残りけり

                           若山牧水

の時季、落葉樹の葉はすっかり散り落ちてしまった。それでも二、三枚の枯葉が風に吹かれながらも、枝先にしがみついている光景がよくある。あわれというよりもどこかしら滑稽にさえ映る。何事もなく静かに眠っているような小さな村には、落葉がいっぱい。寒々と冴えた月が、落葉もろとも村を照らすともなく照らし出しているのであろう。季重なりの句だが、いかにも日本のどこにもありそうで、誰もが文句なく受け入れそうな光景である。牧水が旅先で詠んだ句かもしれない。この句から「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」の名歌が想起される。作者は冬の月を眺めながら、どこぞでひとり酒盃をかたむけているのかもしれない。暁台に「木の葉たくけぶりの上の落葉かな」がある。牧水には他に「牛かひの背(せな)に夕日の紅葉かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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