コミック本『ワンピース』初版300万部、詩歌集は300部程度。唖然。(哲




2010N34句(前日までの二句を含む)

March 0432010

 三月くる葦の根に泡貝に泡

                           ふけとしこ

月に入るとぐっと気温が上がり、植物の生育も活発になる。固くしまっていた木の芽もほころび始める。一日の平均気温が五度を上回るようになると、根から吸い上げた水分を幹から枝先へ運ぶようになると気象協会の説明書きにあった。だとすると、木の幹に耳をすませば幹の中を流れる水音が聞こえるかもしれない。掲句では水の中にある葦の根にぷくぷく出てくる銀色の泡と貝の泡が春の息吹を感じさせる。葦には水質浄化作用があり、コンクリートで固めてダメになった生態系回復のため、いったんは刈り込んだ葦を再び育て始める河口も多いと聞く。美しい写真とセットになったこの句の脇には「淀川べりを歩いた。葦の地下茎から芽が出初めていた。」と添え書きがある。植物にまつわるエッセイと俳句と写真がセットになったこの本はとても楽しい。小さな道端の草や花に心をとめる作者ならではの一冊で、その積み重ねが俳句や文章になってちりばめられている。『草あそび』(2008)所収。(三宅やよい)


March 0332010

 雛買うて祇園を通る月夜かな

                           若山牧水

日は桃の節句、雛祭り。本来は身体のけがれを形代(かたしろ)に移して、川に流す行事だったという。のちに形代にかえて、雛人形を家に飾るようになった。女児を祝う祭りとなったのは江戸時代中頃から。掲出句は雛を買うのだから、三月三日以前のことである。酒好きな牧水のことゆえ、京の町のどこぞでお酒を飲んでほろ酔い機嫌。買った雛人形を大事に抱えて(いつもなら、酒徳利を大事に抱えているのだろうが)、今夜は月の出ている祇園を、ご機嫌で鼻唄でもうたいながら歩いて帰るところかもしれない。雛人形も、祇園の町も、照る月も、そして自分も、すべて機嫌がいいという句である。滅多にない幸福感。「通る」は一見平凡な表現のように思われるけれど、少々心もふくらんで「まかり通って」いる状態なのかもしれない。この句からは、誰もが「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」(晶子)を想起するかもしれない。しかし、この句の場合は「よぎる」よりも「通る」のほうが、むしろさっぱりしていてふさわしいように思われる。短歌と俳句は両立がむずかしいせいか、俳句を作る歌人は昔も今も少ない。それでも齋藤茂吉や吉井勇、会津八一をはじめ何人かは俳句を残している。牧水の句も多くはないけれど、他に「一すじの霞ながれて嶋遠し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0232010

 芽柳や声やはらかく遊びをり

                           遠藤千鶴羽

先のお約束、あらゆる芽が出てくるなかで「柳は緑、花は紅」といわれるように、ことに美しさを極めるのは柳の芽であろう。万葉集に収められた大伴坂上郎女の「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」(佐保川沿いの柳が青々と芽吹き、もう春がくるのですね)にも見られる通り、古くから柳の美しさは詠み継がれている。掲句では中七の「声やはらかく」で柳の枝のしなやかさと若々しさがひと際明瞭になり、また上五の「芽柳」によって遊んでいるのは小さな女の子たちだろうと想像させ、両者が可憐な美を引き立て合っている。少女たちの声が、遊んでいるとわずかに分かる程度に、はっきり聞こえるでもなく、この世の言葉ではないような、まるで小鳥がさえずるかのごとく降りそそぐ。声がやわらかであるという、遠いとか小さいとかの距離でもなく音量でもない形容によって、声を持つ人間の存在を曖昧にさせ、より茫洋とした春の様子を浮かびあがらせているのだろう。そういえば、鈴を転がすような声、という言葉があるが、芽柳が風に吹かれる風情にも鈴が鳴るような華やぎがあると思うのだった。〈暗がりへ続く階段雛かざり〉〈巣作りの一部始終の見ゆる窓〉『暁』(2009)所収。(土肥あき子)




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