井の頭公園にて。ソメイヨシノではなさそうだけど、とりあえず春爛漫。(哲




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March 2132010

 旅立ちの朝の玄関冴返る

                           布能民雄

語は「冴返る」。歳時記には、「冴え」(冬)が返って(帰って)来るという意味で、「寒戻る」などと同じ、とあります。ただ、普通に「冴返る」と聞けば、光や音のあざやかに感じられる様を思い浮かべます。朝日新聞の朝刊でこの句が目に付いたときには、まさに後者の意味でした。この句で詠まれている旅立ちが、どれほど重大なものなのかはわかりませんが、たしかに自分の経験を思い出してみても、遠い地への出張の朝など、玄関で靴を履くときには、いつもと違った改まった気持ちになるものです。どこか玄関が、よそよそしく感じられるものです。靴を履く行為そのものも、不思議に儀式めいてくるとともに、玄関が、日常の時間からずれたところある特別な空間にも感じられてきます。季節がら、4月からの新しい人生に関係した旅なのでしょうか。あるいは友人との気楽な海外旅行ででもあるのでしょうか。旅の理由はともあれ、身を引き締めるほどの冴えが、扉をあけた人の背中を、そっと押してくれているのでしょう。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年3月15日付)所載。(松下育男)


March 2032010

 万華鏡廻すごとくに囀れり

                           岡田日郎

の句とは『俳句・俳景 山の四季』(1997)という本で出会った。作者は、四十年かけて「日本百名山」を踏破されたという。この句に並んで〈囀りの中絶叫の鳥ありし〉。囀りと絶叫、意表をつかれやや驚きながらも、そこには圧倒的な生きものの音が感じられる。その迫力とはまた違った掲出句。鮮やな万華鏡から連想される囀りは、春の輝きに満ちている。万華鏡収集が趣味、という友人が、「万華鏡って、二度と同じ模様が見られないところが好き」と言っていた。確かになあ、と思って覗いていると、その美しさは不思議で儚い。まして命あるものは、音となり形となって存在しているこの瞬間、突然消えてしまってもなんの不思議もない。あたりまえのように廻ってくる春も、二度と同じ春はなく、春が廻ってくることが、いつかあたりまえのことではなくなるのかもしれない、などと思いながら、ガラスの万華鏡で久しぶりに窓の外を覗いてみた。(今井肖子)


March 1932010

 蘂だけの梅猛猛し風の中

                           高橋睦郎

句は草冠の無い「しべ」。命あるものの盛りが過ぎて崩れていく途中のかたちの美しさを愛でるのは日本的美意識特有のものだろう。「猛々しさ」も命の肯定。滅びゆく肉体を意識しつつ想念はさらに燃え盛る人間という比喩にすんなりと入っていける。こんな句は自分の命の果てが実感できない年齢の頃は詠えない。「美しさ」は思いつくかも知れないが。「猛猛しさ」はそれを憧憬するような年齢になって初めて詠える言葉である。『遊行』(2006)所収。(今井 聖)




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