今週の東京の気温はまた早春並みに。ソメイヨシノの開花は遅れそう。(哲




2010ソスN3ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2232010

 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有り

                           宝井其角

角が江戸に出てきたばかりの芭蕉に入門したのは、十四歳のときだったという。べつに早熟というには当たらないけれど、下町生まれの其角が、なぜ芭蕉を選んだのかは気にかかる。掲句は二十歳ころの作だが、もはや十分に世をすねている。医者だった父親の影響で医学や儒学を学び、俳諧の手ほどきも父に受けた。が、医者を開業することもなく、掲句のとおり、オレはちっぽけなな家に住む野巫(やぶ)の子で、風雅に遊ぶばかりだから、人間サマ相手ではなく「月花」の診察をしているようなものさと嘯(うそぶ)いている。この人生態度は生涯変わらず、芭蕉の目指したいわば純正な詩情にはほど遠い世界だ。なのに、なぜ其角は芭蕉を師と仰いだのだろうか。芭蕉の側から其角を見れば、こんな風狂児もまた面白しですむ話かもしれないが、逆に其角が芭蕉に何を求めたのかは判然としない。今日でも其角に人気があるのは、俗を恐れず俗にまみれ、しかも「てやんでえ」と世間に背を向けた近代的な孤立を思わせるスタイルからだろう。彼が芭蕉から学んだことははたして何だったのか。「日の春をさすがに鶴の歩みかな」と、この「鶴」を芭蕉に見たのかしらん。それにしても、私には謎だと言っておくしかないのである。『桃青門弟独吟二十歌仙』(1680)所載。(清水哲男)


March 2132010

 旅立ちの朝の玄関冴返る

                           布能民雄

語は「冴返る」。歳時記には、「冴え」(冬)が返って(帰って)来るという意味で、「寒戻る」などと同じ、とあります。ただ、普通に「冴返る」と聞けば、光や音のあざやかに感じられる様を思い浮かべます。朝日新聞の朝刊でこの句が目に付いたときには、まさに後者の意味でした。この句で詠まれている旅立ちが、どれほど重大なものなのかはわかりませんが、たしかに自分の経験を思い出してみても、遠い地への出張の朝など、玄関で靴を履くときには、いつもと違った改まった気持ちになるものです。どこか玄関が、よそよそしく感じられるものです。靴を履く行為そのものも、不思議に儀式めいてくるとともに、玄関が、日常の時間からずれたところある特別な空間にも感じられてきます。季節がら、4月からの新しい人生に関係した旅なのでしょうか。あるいは友人との気楽な海外旅行ででもあるのでしょうか。旅の理由はともあれ、身を引き締めるほどの冴えが、扉をあけた人の背中を、そっと押してくれているのでしょう。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年3月15日付)所載。(松下育男)


March 2032010

 万華鏡廻すごとくに囀れり

                           岡田日郎

の句とは『俳句・俳景 山の四季』(1997)という本で出会った。作者は、四十年かけて「日本百名山」を踏破されたという。この句に並んで〈囀りの中絶叫の鳥ありし〉。囀りと絶叫、意表をつかれやや驚きながらも、そこには圧倒的な生きものの音が感じられる。その迫力とはまた違った掲出句。鮮やな万華鏡から連想される囀りは、春の輝きに満ちている。万華鏡収集が趣味、という友人が、「万華鏡って、二度と同じ模様が見られないところが好き」と言っていた。確かになあ、と思って覗いていると、その美しさは不思議で儚い。まして命あるものは、音となり形となって存在しているこの瞬間、突然消えてしまってもなんの不思議もない。あたりまえのように廻ってくる春も、二度と同じ春はなく、春が廻ってくることが、いつかあたりまえのことではなくなるのかもしれない、などと思いながら、ガラスの万華鏡で久しぶりに窓の外を覗いてみた。(今井肖子)




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