March 252010
犬の途中自分の途中花ふぶく
渋川京子
毎年この時期になるとどこの花を見に行こうか心が浮き立つ。うららかな空に満開の桜を仰ぐも束の間、強い風に舞っていっせいに桜が散る。あ、もったいないと思いつつ向かい風に花ふぶきを受けながら歩く豪華さはこの季節ならではのもの。この「途中」はいま花吹雪に向かって歩いている犬と自分の状態とともに、おおげさに考えるなら人生の途上ともとれるだろう。数十年生きてきた大人も生まれたての赤ちゃんも誰もが「いま」は人生の途中。隣にならんでいる犬だって、犬として生きている途中であることに変わりはない。いっせいに桜が舞う瞬間、犬とわたしの時間が交差する。犬がわたしであり、わたしが犬であるような親近感とともに何かに誘われて犬とともにここにある偶然の大きさを感じさせる句でもある。てくてくと行きつく先はどこなのかわからないけど、今ここで犬とともに受ける花吹雪がまぶしい。「眼鏡拭く引鳥千羽投影し」「さくら餅たちまち人に戻りけり」『レモンの種』(2010)所収。(三宅やよい)
June 172010
冷房のなかなか効かぬ男かな
渋川京子
夏場に男と女が争う原因のひとつがこれではないか、一読おかしくなった。クールビズの影響か、この頃はノーネクタイのサラリーマンをよく見かけるが、外回りから帰るやいなや暑い暑いと設定を「強」にして吹きつける冷風を浴び書類で顔を仰いだりする。体感温度そのものが違うのか家での冷房も「なかなか効かぬ男」と冷えすぎる女との間で闘いが浮上してくる。そんな背景も踏まえつつ、気が効かないのか態度がでかいのか、まわりが冷ややかな視線を向けているのに、そんな雰囲気をものともしない男を冷房の効かない男にかけているようで、何ともユーモラス。それでも、この「男」の部分を「女」に変えると洒落にならないように思う。女が男をからかうと同時に寄りかかる気分もあって、そのあたりの機微がこの句の味わいを演出しているのだろう。『レモンの種』(2009)所収。(三宅やよい)
November 222012
冬桜化粧の下は洪水なり
渋川京子
冬桜は文字通り冬に咲く桜。一重で白っぽい色をしている。春先に一斉に花開くソメイヨシノと違いいかにも寂しそうである。冬桜は12月ごろから翌年の1月にかけて咲く花。と歳時記にある。二度咲きの変種ではなくわざわざ寒さの厳しくなる冬に開花するのは人間が自らの楽しみのため人為的に作り出したものだろう。化粧で華やかに装った顔の下に激しく感情の動揺が隠されているのだろうか。化粧で押し隠された思いが「冬桜」に形を変えて託されていると考えられる。「今日ありと思ふ余命の冬桜」中村苑子の句なども「冬桜」のはかなさに自分の在り方を重ねて詠んでいるのだろう。作中主体が作者であると必ずしも言えないが自らの感情を託すのだから、私小説的作り方とも言えよう。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)
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