本日辻征夫を偲ぶ会。小沢信男、谷川俊太郎さんら、旧余白組も出席。(哲




2010N325句(前日までの二句を含む)

March 2532010

 犬の途中自分の途中花ふぶく

                           渋川京子

年この時期になるとどこの花を見に行こうか心が浮き立つ。うららかな空に満開の桜を仰ぐも束の間、強い風に舞っていっせいに桜が散る。あ、もったいないと思いつつ向かい風に花ふぶきを受けながら歩く豪華さはこの季節ならではのもの。この「途中」はいま花吹雪に向かって歩いている犬と自分の状態とともに、おおげさに考えるなら人生の途上ともとれるだろう。数十年生きてきた大人も生まれたての赤ちゃんも誰もが「いま」は人生の途中。隣にならんでいる犬だって、犬として生きている途中であることに変わりはない。いっせいに桜が舞う瞬間、犬とわたしの時間が交差する。犬がわたしであり、わたしが犬であるような親近感とともに何かに誘われて犬とともにここにある偶然の大きさを感じさせる句でもある。てくてくと行きつく先はどこなのかわからないけど、今ここで犬とともに受ける花吹雪がまぶしい。「眼鏡拭く引鳥千羽投影し」「さくら餅たちまち人に戻りけり」『レモンの種』(2010)所収。(三宅やよい)


March 2432010

 盗人に春の寝姿見られけり

                           与謝野鉄幹

の意味はそのままである。何ら高踏でも、むずかしいことを詠っているわけでもない。陽気がよくなった春の午後か宵、居間にごろりと横になってうとうとしていたのであろう。その無防備な寝姿を盗人に見られたというのだ。けれども盗人であれ誰であれ、本人は寝ていたわけだから、それが盗人だったのか他の誰かだったのか、あるいは通りかかった妻だったのか、本人にはわからないはずである。盗人だったとすれば、盗人が春の宵に人けがないようだから一仕事しようと外から覗いた。するとそこに、まだ明かりもつけずに男が寝ていたから慌てて立ち去った。そのことに気付いた奥さんに、起きてから呆れ顔で聞かされた。ーまあ、そんなことを勝手に想像させていただくのもよろしかろう。いや、まんざら勝手な想像でもなさそうだ。というのは、与謝野晶子がすかさず「盗人に宵寝の春を怨じけり」と詠んでいるからだ。寝姿を見られたあと、晶子にそのことを告げられ、地団駄踏んで怨みごとを吐き出したところで、あとのまつり。ものを盗まれたよりも無防備な「寝姿」を盗まれてしまった悔しさ。あるいは「寝姿」は晶子だったか。だとすると晶子の怨みごと。落語に出てくるような、間抜けな盗人だったかもしれない。男性であっても、少々色っぽい「春の寝姿」と「盗人」の取り合わせの妙味。三者三様それぞれに春風駘蕩といった観がある。句の裏に、どっしりと構えている晶子夫人の姿がどうしても見えてくる。両者の句をならべれば味わいがいっそう愉しくなる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 2332010

 薄目して見ゆるものあり昼蛙

                           伊藤卓也

視ではなく、薄目でなければ見えないものがあるのだろう。坐禅でいわれる半眼は1メートルくらい先に目を落し「外界を見つつ、内側を見る眼」とあり、なにやらむずかしそうになるが、そこは「昼蛙」の手柄で、すらっとのんきに落ち着かせている。蛙という愛嬌のある生きものは、どことなく思慮深そうで、哀愁も併せ持つ。雀や蛙は、里や田んぼがある場所に生息するものとして、人間のいとなみに深く密着している。ペットとはまた違った人との関係を古くから持つ生きものたちである。そのうえ鳥獣戯画の昔から、人気アニメ「ケロロ軍曹」の現代まで、蛙はつねに擬人化され続け、「水辺の友人」という明確な性格を持った。こうして掲句の薄目で見えてくるものは、やわらかな水のヴェールに包まれた「あれやこれ」という曖昧な答えを導きだし、それこそが春の昼にふさわしく、また蛙だけが知っているもっとも深淵なる真実を投げかけているようにも思う。他にも〈蛍を入れたる籠の軽さかな〉〈見つめをり金魚の言葉分かるまで〉など、小さな生きものを詠む作品にことに心を動かされた。『春の星』(2009)所収。(土肥あき子)




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