やっと晴れマーク。でも気温は低そう。いつまで足踏みするのか、春。(哲




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March 2632010

 鼻さきにたんぽぽ むかし 匍匐の兵

                           伊丹三樹彦

の野に寝転び鼻先にたんぽぽを見る安らぎの中にいて、記憶は突如フラッシュバック。いきなり匍匐前進中の兵隊である我に飛ぶ。銃弾飛び交う状況である。この句を見て思い出す映画がある。スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演の映画「プライベート・ライアン」は何千基と林立する戦没者の墓の一つを探し当ててよろよろと駆け寄る老人のシーンから始まる。命の恩人の墓を見出した老人の感激の表情から、シーンは突然数十年前の激戦のシーンに飛ぶ。この句とその映画の冒頭は同じ構造を持つ。何かをきっかけにむかしを思い出すのはよくあること。懐メロなんかはそのためにすたれない。いい記憶ならいいが、悪い記憶に戻る「鍵」などないほうがいい。戦闘機乗りの話をどこかで読んだ。広い広い穏やかな海と青空のほんの一角で空戦や艦爆が行われている。攻撃機はその平安の中を飛んで、わざわざ殺し合いの状況下へ入っていくわけだ。静かな美しい自然の中の醜悪な小さな小さな空間の中へ。この句、たんぽぽがあるから救われる。「兵」が人間らしさを保つよすがとなっている。『伊丹三樹彦集』(1986)所収。(今井 聖)


March 2532010

 犬の途中自分の途中花ふぶく

                           渋川京子

年この時期になるとどこの花を見に行こうか心が浮き立つ。うららかな空に満開の桜を仰ぐも束の間、強い風に舞っていっせいに桜が散る。あ、もったいないと思いつつ向かい風に花ふぶきを受けながら歩く豪華さはこの季節ならではのもの。この「途中」はいま花吹雪に向かって歩いている犬と自分の状態とともに、おおげさに考えるなら人生の途上ともとれるだろう。数十年生きてきた大人も生まれたての赤ちゃんも誰もが「いま」は人生の途中。隣にならんでいる犬だって、犬として生きている途中であることに変わりはない。いっせいに桜が舞う瞬間、犬とわたしの時間が交差する。犬がわたしであり、わたしが犬であるような親近感とともに何かに誘われて犬とともにここにある偶然の大きさを感じさせる句でもある。てくてくと行きつく先はどこなのかわからないけど、今ここで犬とともに受ける花吹雪がまぶしい。「眼鏡拭く引鳥千羽投影し」「さくら餅たちまち人に戻りけり」『レモンの種』(2010)所収。(三宅やよい)


March 2432010

 盗人に春の寝姿見られけり

                           与謝野鉄幹

の意味はそのままである。何ら高踏でも、むずかしいことを詠っているわけでもない。陽気がよくなった春の午後か宵、居間にごろりと横になってうとうとしていたのであろう。その無防備な寝姿を盗人に見られたというのだ。けれども盗人であれ誰であれ、本人は寝ていたわけだから、それが盗人だったのか他の誰かだったのか、あるいは通りかかった妻だったのか、本人にはわからないはずである。盗人だったとすれば、盗人が春の宵に人けがないようだから一仕事しようと外から覗いた。するとそこに、まだ明かりもつけずに男が寝ていたから慌てて立ち去った。そのことに気付いた奥さんに、起きてから呆れ顔で聞かされた。ーまあ、そんなことを勝手に想像させていただくのもよろしかろう。いや、まんざら勝手な想像でもなさそうだ。というのは、与謝野晶子がすかさず「盗人に宵寝の春を怨じけり」と詠んでいるからだ。寝姿を見られたあと、晶子にそのことを告げられ、地団駄踏んで怨みごとを吐き出したところで、あとのまつり。ものを盗まれたよりも無防備な「寝姿」を盗まれてしまった悔しさ。あるいは「寝姿」は晶子だったか。だとすると晶子の怨みごと。落語に出てくるような、間抜けな盗人だったかもしれない。男性であっても、少々色っぽい「春の寝姿」と「盗人」の取り合わせの妙味。三者三様それぞれに春風駘蕩といった観がある。句の裏に、どっしりと構えている晶子夫人の姿がどうしても見えてくる。両者の句をならべれば味わいがいっそう愉しくなる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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