桜の嫌いな人もいる。何事につけ人さまざま。わきまえておかないと。(哲




2010ソスN4ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0242010

 文弱の兄また兄に残花かな

                           藤原月彦

者は1952年生まれ。文弱という言葉を「詩語」として使える狭い範囲の世代である。戦前なら「文弱」は使用頻度の高い日常語。50年生まれの僕も父に「文学部なんか嫁入り道具、男が行くもんじゃない」と言われた。高校の頃、祖母に俳句が趣味だと言ったら呆れた顔をして、あとで「あの子は道楽もんのおじいさんの血を継いだこてね」と親戚中に嘆いてまわった。文弱という語を見つけたときは、父や祖母の時代の言葉だと思いつつ、その意味するところに新鮮な感じをもったものだ。高度成長期に就職期を迎えた世代から「文弱」は完全な死語になった。文学部は花嫁道具ではなくなった。「女の腐ったような」も「文弱」もその時代の状況や雰囲気を映し出す。月彦さんも僕も、かろうじて「文弱」が自覚できる世代。敢えて文弱になる決意をした最後の世代である。「俳句研究」(1975年11月号)所載。(今井 聖)


April 0142010

 春園のホースむくむく水通す

                           西東三鬼

翹、雪柳、桜、と花々は咲き乱れ、木々の枝からは薄緑の芽がそこここに顔を出している。見渡せば柔らかな春の空気に明るく活気づいた景色が目を楽しませてくれる春の園、だのにこの俳人は地面に投げ出されたホースにじっと目を凝らしている。心臓の鼓動を伝える血管のように水の膨らみを伝えてうねるホース。「むくむく」と形容されたホースが生き物のようだ。三鬼の視線に捉えられると「春の園」も美しさや華やかさを演出するものではなく生々しく過剰な生命力が吹きだまった場所に思えてしまう。三鬼はともすれば俳句の器に収まりきれないこうした自分の資質を持て余したのかもしれない。戦後、三鬼の誓子への傾倒について高柳重信は「とかく俳句から逸脱してしまいそうな彼の言葉の飛翔力に対し、それは、とりあえず、たしかな俳句の原器であった」と述べている。それにしても亡くなった日がエープリル・フールとは、一報を受けた人たちは唖然としただろう。自分の死さえ茶化してしまったような三鬼の在りようは最後まで俳句の尋常をはみ出していたように思う。『西東三鬼集』(1984)所収。(三宅やよい)


March 3132010

 一二三四五六七八桜貝

                           角田竹冷

んな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)




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