昨日は終日、大野新『沙漠の椅子』('77)を開いてぼおっとしていた。(哲




2010ソスN4ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0642010

 荒使ふ修正液や桜の夜

                           吉田明子

正液は短期間にずいぶん進化したもののひとつだろう。現在の主流は、つるつるっと貼るテープ状のものと、カチカチっと振って使うペンタッチタイプのようだ。どちらもすぐに文字が書けるところがポイントで、以前の液体タイプは乾くまでしばらく待たなければならなかった。昭和52年の発売当初はマニキュアボトルのような刷毛型で、しばらく使うと刷毛がガチガチに固まり、それはもう厄介であったと聞く。修正液の上に慌てて文字を書こうとすれば、よれてしまったり、にじんでしまったり、またぞろ上から修正することにもなる。そうこうするうちに、その部分だけやけに立体的になってしまう。間違ってしまったという気持ちの萎えと、一刻も早く正しく訂正しようという焦りが失敗を生み続け、今日の修正液の改善へとつながっているのだろう。掲句にある「荒使ふ」は、荒っぽくじゃんじゃん使うという意だが、下五の「桜の夜」の効果によって、単なる文字の書き間違いというより、心の逡巡を感じさせる。ところどころに桜の花が散ったような書面を思うと、修正前の言葉を憶測して透かしてみたりしてしまうだろう。修正跡には揺れ動く作者の一瞬前の時間が封印されている。〈校庭に白線あまた春をはる〉〈ペコちゃんもポコちゃんもけふ更衣〉『羽音』(2010)所収。(土肥あき子)


April 0542010

 花疲泣く子の電車また動く

                           中村汀女

週の土曜日は、井の頭公園で花見。よく晴れたこともあって、予想以上の猛烈な人出だった。道路も大渋滞して、バスもいつもなら数分で行ける距離を三十分以上はかかる始末。花見の後の飲み会に入る前に、気分はもうぐったり。花見に疲れたのではなく、人ごみにすっかり疲れてしまったのだった。人に酔うとは、このことだろう。季語の「花疲れ」は、そういうこともひっくるめて使うようだ。掲句で、作者は花見帰りの電車のなかにいる。くたびれた身には、車内の幼児の泣き声が普段よりもずっと鬱陶しく聞こえる。そのうちに、だんだん腹立たしくなってくる。早く降りてくれないかな。停車するたびに期待するのだが、今度もまた、泣きわめく声を乗せたまま、無情にも電車は動きはじめた。がっかりである。そんな気持ちに、電車も心無しかいつもよりスピードが遅く感じられる。さりげない詠みぶりだが、市井の詩人・汀女の面目躍如といったところだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0442010

 雪とけてくりくりしたる月夜かな

                           小林一茶

だまだ寒い日が続いています。と、私がこれを書いているのは、寒気が上空を覆っている3月30日(火)ですが、はてさて4月4日には陽気はどうなっているのでしょうか。この句のように「雪とけて」、穏やかな春の大気に包まれているでしょうか。本日の句、ポイントはなんといっても「くりくり」です。なんだかふざけているような、でも馬鹿らしくは感じさせないすれすれのところの擬音を、さりげなく置いています。心憎い才能です。「くりくり」から思いつくのは、今なら子供の大きな丸い目ですが、当時はどうだったのでしょう。凡人には、いくら頭をひねっても、あるいは幾通りの擬音をためしてみても、こんなふうには出来上がらないものです。結局は持って生まれた才能のあるなしで、文学のセンスは決まってしまうのかと、凡庸な才で日々苦労しているものにとっては、つらい気持ちにさせられます。とはいうものの、今更どうなるものでもなく、たまたま見事な言葉遣いの才が、この人に与えられてしまったのだと気をとりなおし、目をくりくりして、ただ素直に感動することにしましょう。『百人百句』(2001・講談社)所載。(松下育男)




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