つめたい花散らしの雨。これからは一雨ごとに青葉若葉が鮮やかに。(哲




2010ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242010

 きれいねと知らぬ人とのさくらかな

                           相生葉留実

見に出かけての句ではないだろう。歩いていてたまたま遭遇した「さくら」の見事さに、つい近くにいた見知らぬ人に呼びかけたのである。同意を求められた人も、微笑してうなずき返している様子が目に浮かぶ。何の屈託もない素直な中身と詠みぶりが、それだけにかえって読後の印象を鮮明にしてくれる。花を愛でた句は枚挙にいとまがないけれど、アングル的にはけっこう意表をついた句だと思う。詩から俳句に転じた人は多いが、作者もそのひとりだ。京都に住み、第一詩集『日常語の稽古』(思潮社・1971)以降良質な作品を書きつづけていて、私も愛読していたが、いつの間にか俳句の道に進んでいた。そのことを知ったときにはかなり驚きもしたけれど、今回まとめられた句集を読むと、とかく思念や情趣をこねくりまわしがちな「現代詩」の世界と分かれた理由も納得できたような気がする。いわば資質的に俳句に似合っていた人とでも言うべきか。熱心な詩の「稽古」のおかげで、ついに自分にかなった言語世界を発見できたとも……。ただ惜しむらくは、作者が昨年一月に子宮癌で亡くなったことだ。さくらの季節に出た自分の句集を、生きて見ることはなかった。俳人としては、これからというときだったのに……。合掌。『海へ帰る』(2010・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 1142010

 人も見ぬ春や鏡の裏の梅

                           松尾芭蕉

の表面をミズスマシのように歩いたり、あるいは鏡の中の世界へ深くもぐりこんでいったり、というのは、アリスの国の作者だけではなく、だれしもがしたくなる想像の世界です。この句で芭蕉は、鏡の外でも中でもなく、鏡の裏側の絵模様に視線を当てています。鏡に映っている下界の季節とは別に、鏡の裏側にも季節がきちんと描かれていて、見れば梅の咲き誇る春であったというのです。けれど、この春はだれに見られることもなく、また、時が進んでゆくわけでもなく、取り残されたように世界の裏側にひっそりと佇んでいます。鏡の外の庭には、すでに桜が咲き、さらにその盛りも過ぎようとしています。けれど鏡の裏側には、いつまでも梅の花が、だれに愛でられることもなく咲いています。句全体に、美しいけれどもどことなくさびしさを感じてしまうのは、鏡の裏という位置に、自分の人生を重ねあわせてしまうからなのです。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


April 1042010

 ここ此処と振る手儚し飛花落花

                           池田澄子

花から満開まで何度か花を見に出かけたが、ほとんどダウンジャケット着用。夜、月を仰ぎながら、ぼーっと飛花落花の中に立つ、ということもないまま花は葉に、となりそうだ。咲いてから冷えこむと確かに花の時期は長いけれど、枝の先の先までぷっくりまるく咲ききって、そこに満ちあふれた散る力が、光と風に一気に解き放たれるあの感じはやや乏しい気がする。それでも、花の下で幾度か待ち合わせをした。目当ての花筵を探したり、来る人を待ったり。遠くから視線が合うと皆手を振る。掲出句で手を振っているのは、作者を待っていた人か。花びらの舞う中でひらひら動くその手に、ふと儚さを感じたのだろう。空へ地へ散り続く花の中にあると、確かな意志を持って明るく振られている手がそんな風に見える瞬間が、きっとある。『俳句』(2010年4月号)所載。(今井肖子)




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