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April 1942010

 菜の花の中や手に持つ獅子頭

                           松窓乙二

者の乙二(おつじ)は、江戸時代後期の東北の俳人。この俳人とその句のことは、矢島渚男『俳句の明日へ3』(紅書房・2002)で、はじめて知った。いちめんの菜の花のなかを、獅子舞の男が通ってゆく。獅子舞といえば都会では正月のものと決まっていたが、渚男が書いているように「陽春の候、春祭に東北あたりまでやってきたものか」もしれない。いずれにしても、当時の東北の人でもあまり見かけぬ光景であったのだろう。この様子を想像してみると、菜の花畑の黄色い花々に獅子舞の男はすっかり溶け込んでいて、ただひとつ獅子頭のみが移動しているのが見えているような気がする。なんだか夢でも見ているかのような、奇異でシュールな光景だ。おそらくは、乙二とともに目をこすりたくなった現代の読者も多いのではなかろうか。作者は光景そのままを詠んでいるだけだが、しかしこの「そのまま」を見落とさずにきちんと捉えた才質は素晴らしいと思う。俳人は、かくあるべきだろう。春うらら……。(清水哲男)


April 1842010

 蝋涙や けだものくさきわが目ざめ

                           富沢赤黄男

季句です。蝋涙は「ろうるい」と読みます。普通の生活をしている中では、とてもつかうことのない言葉です。なんだか明治時代の小説でも読んでいるようです。辞書を引くまでもなく、その意味は、蝋がたれているように涙を流している様を表現しているのかなと、思われます。文学的な表現だから、いささか大げさなのは仕方がないにしても、蝋燭の流れた跡のように涙の筋が残っているなんて、いったいどんなことがあったのだろうと、心配になってきます。「けだもの」という、これもインパクトの強い単語のあとに、「くさき」と続けるのは、自然な流れではあるけれども、ちょっと意味がダブっているような気もします。それにしても、生命が最も力の漲っているはずの目覚めのときに、すでにしてたっぷりと泣いているというのです。おそらく世事のこまごまとした悩みからではなく、命あることの悲しみ、そのものを詠いあげているのでしょう。あるいはそうではなく、日々の平凡な目覚めこそが、実はそのようなものなのだと、言っているのでしょうか。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


April 1742010

 からすゐてなんのふしぎぞ烏の巣

                           西野文代

がうるさくて眠れなかったと花魁がぼやいた、という江戸時代の文献があるとか。昔は神の使いだった烏もその頃から、身近な存在である反面やっかいなカラス、となってしまったのだろうか。都会のカラスが、枝のかわりに針金など光るものを選んで巣を作ると聞いてはいたが、昨年、色とりどりのハンガーらしきものでできた巣を目の当たりにして、あらためてそのたくましさと賢さに驚いた。確かにカラスといえば、ゴミ集積所で餌を漁っているとか、枯れ枝にとまっているとか、勝手に決めているふしがあり、巣におさまっている、というのはなんとなく不似合いな気がしてしまう。掲出句の作者にも同様の心持ちがあると同時に、カラスに対する視線は優しい。そしてそのおおらかな詠みぶりに、都心にしては大きい森で鳴き交わしていた、春の鳥らしいカラスを思い出した。これからの季節、少し神経質になったカラスが多少恐くてもうるさくても、ご近所に住む者同士、と思うことにしようか。『それはもう』(2002)所収。(今井肖子)




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