薄型テレビ普及7割と内閣府。ほんまかいな。周辺で買った人はいない。(哲




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April 2142010

 あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ

                           三好達治

暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2042010

 天上にちちはは磯巾着ひらく

                           鳥居真里子

と磯巾着とは一体なにものなのだろう、と考えてみた。貝殻のない貝なのか、固定された魚なのか。調べてみると刺胞動物門虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目に属する動物だというから、食虫植物的珊瑚というのが正しい認識のようだ。そして、続く記述にさらに驚いた。磯巾着とは、どれも岩に固定しているわけではなく、時速数センチという速度で移動できるのだという。また、英名では「海のアネモネ」、独名では「海の薔薇」と呼ばれるのだから、あの極彩色の触手を天に向かって揺らめかせる様子を花と見立てて「咲く」と表現することももっともなことなのだ。しかし、一面の磯巾着をただ極楽のように美しいとだけ捕えるのは難しいだろう。あの触手にからめ取られるものがあることは容易に想像ができるのだから。触手に触れたものは、一体どこに運ばれていくのだろうか。海中に咲く磯巾着の花束を見おろしながら、作者もまた異界へと誘われているのだろう。『鼬の姉妹』(2002)所収。(土肥あき子)


April 1942010

 菜の花の中や手に持つ獅子頭

                           松窓乙二

者の乙二(おつじ)は、江戸時代後期の東北の俳人。この俳人とその句のことは、矢島渚男『俳句の明日へ3』(紅書房・2002)で、はじめて知った。いちめんの菜の花のなかを、獅子舞の男が通ってゆく。獅子舞といえば都会では正月のものと決まっていたが、渚男が書いているように「陽春の候、春祭に東北あたりまでやってきたものか」もしれない。いずれにしても、当時の東北の人でもあまり見かけぬ光景であったのだろう。この様子を想像してみると、菜の花畑の黄色い花々に獅子舞の男はすっかり溶け込んでいて、ただひとつ獅子頭のみが移動しているのが見えているような気がする。なんだか夢でも見ているかのような、奇異でシュールな光景だ。おそらくは、乙二とともに目をこすりたくなった現代の読者も多いのではなかろうか。作者は光景そのままを詠んでいるだけだが、しかしこの「そのまま」を見落とさずにきちんと捉えた才質は素晴らしいと思う。俳人は、かくあるべきだろう。春うらら……。(清水哲男)




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