2010N5句

May 0152010

 定年はやがてくるもの花みづき

                           日下部宵三

日から五月、夏近し。とはいえ、どうもすっきりしない春だった、とぶつぶつ言っているうちに、花みづきが満開の通勤路である。花みづきは、歳時記では夏季だったり春季だったり。確かにあの眩しい白は、街を一気に初夏の景色にするけれど、春から夏へ、空の色も少しづつ変わってくる今頃の花だ。学校は当然の事ながら、皆等しく三月に定年退職となる。五十代も後半に突入して、その時がぐっと近づいてきた心地のこの頃だが、自由の身となった開放感を一ヶ月ほど味わったあと、満開の花みづきの白さに何を思うだろう。などと思いながら、やがて、を広辞苑で調べると、「本来は、間に介在するもののないさまをいう。」とあり、「すぐさま。ただちに。」が1.の意味になっている。2.の意味として、「まもなく。ほどなく。今に。」などあるが、それでも思っていたより、間近な印象だ。北米原産というこの花の、見ようによってはあっけらかんとした明るさに、急かされるような励まされるような不思議な気分になるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


May 0252010

 ぶらんこの人を降ろして重くなり

                           武仲敏治

語は「ぶらんこ」、春です。もともと文学というのは、人と違ったことを言いたがる傾向にありますから、ものの見方を逆にしてみるというのは、決して珍しいことではありません。それでも今日の句のように、このテクニックがまだまだ新鮮に感じられることがあるから、不思議なものです。要は、逆説的にものを見た、それだけではないものを作品が示してくれているかどうかにかかっているようです。この句では、ぶらんこは人が降りたら軽くなるのではなく、むしろ重くなるのだといわれて、ああそういう見方もあるのかと、なぜか頷いてしまいます。つまり、読み終わった瞬間に、理由はともかく、読者が頷いてくれるかどうかが作品成立の分かれ道です。長谷川櫂氏は、「今まで軽やかに揺れていたのに、もはや垂れたまま動かず」と、解説しています。なるほどそう言われてみればそうなのかと思います。ただ、擬人にとらわれてしまう私には、自分に思いを寄せてくれていた人が、突然去ったあとの心の重さのことなのだと、つい受け止めてしまうのですが。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年4月26日付)所載。(松下育男)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0452010

 お早うと言ふはつなつのひびきなり

                           奥坂まや

成19年からは今日が「みどりの日」。先月29日の「昭和の日」となった元「みどりの日」には、なんだか人間の都合で移動していただいた感もあるが、ともあれ日本列島はGWのまっただ中。心地よい陽気に連なったお休みで、羽を伸ばしている方も多いだろう。「おはよう」には、「お早くから○○ですね」の前半が残された挨拶であるという。業種によっては、昼過ぎや夜間になっても「おはよう」の挨拶を交わすところがあるが、これも自分より早くから働いている人へのねぎらいとともに、スタートの意欲や意気込みが含まれるのだと思うと納得がいく。また、英語の「Good morning」にはたいてい最後に名前を付けて、その人へ、と向けられるが、日本語の「おはよう」には窓を開いて朝の光りに、若葉を満たした街路樹に、道ゆく猫に、と投げかけられ、万象から活気をもらうおまじないのような効用も感じられる。明日は立夏。暑いさなかの立秋や、こごえる立春など、少々やせがまんを強いられるような節気のなかで、唯一気温と言葉が一致する気分の良い節目である。「初夏(はつなつ)」のはつらつと清々しい季節にむかって、今朝は「おはよう」を言ってみる。『縄文』(2005)所収。(土肥あき子)


May 0552010

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

日は「子供の日」、大型ゴールデン・ウィークの最後の日でもある。みなさま身も財布もクタクタ……でしょうか? 例外なく子供はカレーライスが大好き。いや、大人だって例外ではない。好みによって、家庭によって、それぞれ工夫されたカレーライスが作られる。子供にも楽しみながら簡単に作ることができる。私が子供の頃の田舎では、肉は容易に入手できなかったけれど、肉のかわりに鮭缶や鯨肉入りのものをよく食べさせられ、おいしかった。さて、子供の日に何かの集まりで、お母さんたちが大鍋にどっさり作ったカレーが振る舞われたのだろう。子供たちが寄ってたかって、あっという間に大鍋が空っぽになってしまったーという情景をごく素直に詠んだ句である。妙にテクニックを凝らすよりも、このストレートさがむしろ好ましい。それでいて、中七「カレー空っぽ」というKR音の重ね方が、明るいリズム感を生んでいる。隠された計算だろう。かつて和歌山で毒入りカレー事件なる物騒な事件が起きたけれど、一人でしみじみスプーンを口に運ぶというよりは、子供であれ、大人であれ、大勢寄ってたかってワイワイとにぎやかに食べるほうが、カレーライスはおいしいに決まっている。レストランのコックさんが作ったものよりも、お母さんがさりげなく作ったカレーがいちばんおいしい。不思議な料理である。私たちが食べるカレーのスタイルはインドではなく、イギリスで作られたものだそうだ。清水哲男『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)


May 0652010

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

緑の美しい季節になった。連休の2日目、陣馬山から景信山へ渡る尾根道から山の斜面を見下ろすと、古葉を落としみずみずしく生まれ変わる薄緑の若葉の茂りがはっきりと見て取れた。椎、樫、楠、欅、それぞれ樹皮の模様から枝ぶりまで多種多様で、ひとつひとつの名前を確かめながら、森や山をめぐるのは連休の楽しみのひとつ。イタリアのブルーノ・ムナーリの『木をかこう』という絵本にカシワの葉を良く見ると葉脈がカシワの木と同じかたちをしていると書かれている。樹形が葉脈に映し出されるなんて驚きだ。空へ大きく広げた枝を折りたたみ、折りたたみまとめるとその幹の太さになるとも。五月の光をいっぱいに受けながら茂りゆく木々にある不思議な法則。萌黄色の若葉を透かす眩しさに木の名前をだぶらせてその特徴ある樹形を、幹の手触りをいとおしみたい。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


May 0752010

 祭前お化けの小屋の木組建つ

                           橋詰沙尋

霊屋敷の木組ができあがる。木組に壁が貼られ、屋根で覆われ、その中に人間が扮した幽霊が配置され、それを観に善男善女が訪れる。木組のかたちを基点にしてやがて木組の目的や意図へ読者の思いがいたるときすっと作者の批評意識が見えてくる。この順序が要諦なのだ。皮肉も揶揄も箴言も象徴もその意図が初めから前面に出ると「詩」も「文学」もどこかに行ってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に優れたポエジーがあると思う人はあまりいないだろう。ものに見入って、そのままを写す。そこからかたちならざる観念に到れるか否か、それは詩神に委ねるしかない。「俳句研究」(1975年11月号)所載。(今井 聖)


May 0852010

 葉桜や橋の上なる停留所

                           皆吉爽雨

留所があるほどなので、長くて広い橋だろう。葉桜の濃い緑と共に、花の盛りの頃の風景も浮かんでくる。最近は、バス停、と省略されて詠まれることも多い、バス停留所。こうして、停留所、とあらためて言葉にすると、ぼんやりとバスを待ちながら、まっすぐに続いている桜並木を飽かずに眺めているような、ゆったりした気分になる。大正十年の作と知れば、なおさら時間はゆっくり過ぎているように思え、十九歳で作句を始めた爽雨、その時二十歳と知れば、目に映るものを次々に俳句にする青年の、薫風を全身に受けて立つ姿が思われる。翌十一年には〈枇杷を食ふ腕あらはに病婦かな〉〈ころびたる児に遠ころげ夏蜜柑〉など、すでにその着眼点に個性が感じられる句が並んでいて興味深い。『雪解』(1938)所収。(今井肖子)


May 0952010

 縞馬の流るる縞に夏兆す

                           原田青児

て、シマウマの縞は縦だったか横だったかと、にわかにわからなくなり、さっそく調べてみれば、1頭の体の中には縦も横もあり、確かに「流れる」ように全身を覆っています。こんな模様はどこかで見たことがあるなと思い起こせば、両手の指に刻まれた指紋のようであります。同じ縞模様は二つとないのだと書いてあるネットの解説に、それではなおさら指紋と同じではないかと、再び感心してしまったわけです。シマウマを詠んだ句では、かつて今井聖さんがこの欄で採り上げた「しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る」(富安風生)が愉快に思い出されますが、どちらの句も、初夏を詠っています。緑鮮やかに生えそろった草を食むシマウマのゆったりとした姿が、夏の開放感を感じさせてくれるからなのでしょうか。それにしても、なんであんなにあざやかな模様がついているのだろうと、不思議でなりません。シマウマに限らず、複雑な模様のついた動植物を見るにつけ、地味な色で出来上がっている自分の体と人生に、なぜか思いは巡ってゆきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


May 1052010

 苜蓿踏んで少年探偵団

                           小西昭夫

想句だろう。江戸川乱歩が創り出した「少年探偵団」は、戦前から戦後にかけて多くの少年たちを魅了した。私も虜になったひとりだが、いま振り返ってみると、魅力の秘密は次の二点に絞られると思う。その一つは登場する少年たちが大人と対等にふるまえたこと。もう一つは、掲句に関係するが、大都会が舞台であったことだ。探偵団は明智小五郎の補佐役という位置づけではあったけれど、数々の難事件に取り組むうちには、大人顔負けの活動も要求される。団長の小林少年などはなにしろピストルすら携帯していたのだから、立派な大人扱いである。しかも彼らの活躍舞台は、華やかな都・東京だ。探偵団の読者のほとんどは田舎かそれに近いところに暮らしていたので、東京というだけで胸の高鳴りを覚え、そこに住みかつ活躍する探偵団のメンバーには羨望の念を禁じ得なかったのだ。そんな読者の常で、いつしかファン気質が「ごっこ」遊びに発展してゆく。まさかピストルまでは持てないけれど、ちゃんと代替物を用意して、どこにもいるはずのない明智小五郎の指示に従い、怪人二十面相を追跡する遊びにしばし没入するというわけだ。そこで気分はすっかり探偵団になるのだが、哀しいことにここは東京じゃない。早い話が、二十面相を尾行する道も舗装などされていない田舎道であり、そこここには「苜蓿(うまごやし)・クローバー」なんぞが生えていたりする。それでも「ごっこ」に夢中になれたあの頃……。その純情が懐かしくもいとおしい。そんな思いが込められた一句だ。『小西昭夫句集』(2010)所収。(清水哲男)


May 1152010

 横顔は猛禽のもの青葉木菟

                           茨木和生

葉木菟は初夏にやってきて、秋に帰る梟科の鳥である。夜行性だが、青葉のなかで時折その姿を見ることもある。丸顔に収まった大きな目で小首を傾げる様子など、なんとも愛くるしいが、大型昆虫類を捕食する彼らはまた立派な猛禽類なのだ。数年前になるが、明治神宮を散歩していたときのこと。この木の上に青葉木菟のすみかがあると教えてもらった。「声も姿もしないのにどうしてわかるのだろう」と不思議だったが、木の根本を見て了解した。そこには腹だけもがれた蝉の死骸が散らばっていたのだ。可愛らしい丸顔に収まったくちばしは、正面から見る限り小さく存在感が薄いものだが、横向きになれば見事に湾曲したそれは、肉を引きちぎったり、掻き出したりすることに特化した鷹や鷲に通じるかたちがはっきりわかる。まだ羽を震わせているような蝉の残骸に、青葉木菟の横顔をしかと見た思いであった。〈雲の湧くところにも家栗の花〉〈青空の極みはくらし日雷〉『山椒魚』(2010)所収。(土肥あき子)


May 1252010

 皿の枇杷つぶらつぶらの灯なりけり

                           和田芳恵

杷の白い花が咲くのは冬だが、その実は五〜六月頃に熟す。枇杷の木は家屋敷内に植えるものではない、という言い伝えを耳にしたことがある。しかし、家のすぐ外に植えてある例をたくさん目にする。オレンジ色の豆電球のような実がびっしりと生(な)るのはみごとだけれども、緑の濃い葉の茂りがどことなく陰気に感じられてならない。その実一つ一つは豆電球のようないとしい形をしていて、まさしく「つぶらつぶらの灯」そのものである。食べる前に、しばし皿の上の「つぶら」を愛でている、の図である。あっさりとした甘味が喜ばれる。皮がぺろりとむけるのも、子供ならずともうれしく感じられる。それにしても、つぶらな実のわりに種がつるりとして、不釣り合いに大きいのは愛嬌と言っていいのかもしれない。「枇杷の種こつんころりと独りかな」(角川照子)という句を想う。千葉や長崎、鹿児島のものが味がよいとされるが、千葉では種無し枇杷を開発しているようだ。あの大きめの種が無いというのは、呆気ない気がするなあ。枇杷は山ほど食べたいとは思わないけれど、年に一度は旬のものを味わいたい。樋口一葉研究でよく知られた芳恵は、志田素琴について数年俳句を学んだことがあるという。夏の句に「ほととぎす夜の湖面を鋭くす」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1352010

 まむしぐさ蛇口をすこし開けてをり

                           新妻 博

むし草は山野草のひとつで有毒植物と、植物図鑑に記載がある。写真を見るとすっぽり伸びた花茎には紫の文様があり、それがまむしの柄と似通っているため、この名前がつけられたらしい。毒々しく赤い実がびっしりと詰まっている様子を見てもあまり気持ちのよい植物に思えない。一説ではまむしの出るところに生えているのでこの名前がついたともあり、あまり陽の当らないうっそうとした場所に顔を出すのだろう。それにしても掲句を読んで水道の蛇口って「蛇の口」って書くんだな、と改めて気付かされた。毎日「蛇の口」から出される水で煮炊きし、顔を洗い、口を漱いでいるわけだ。銀色に光る蛇口をすこしひねる何気ない動作も「まむし草」という植物と取り合わされることで、木下闇に三角の頭をもたげて口を少し開けている毒蛇と連想がかぶって、おどろおどろしい光景が映し出される。使い慣れている言葉も定型を生かした取り合わせによって迷宮へ降りてゆく入口が開くようで、こうした句を読むたび尽きせぬ興味を感じさせられる。『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)


May 1452010

 素老人新老人やかき氷

                           村上喜代子

老人とは言えても素老人とはなかなか言えない言葉。もちろん素浪人とかけている。近所の公園は朝五時ごろから老人天国。老人に占拠されたような状態である。犬の散歩、野良猫に餌をやる人、運動をする人。運動する人はいくつかに分類できる。自分で体操する人、みんなでラジオ体操する人、走りまわる人、歩きまわる人。その中にゴミを拾っている人も見かける。女性も男性も全部老人ばかりである。町が本当に占拠されることはないのだろうか。怒りの老人が老人解放戦線を組織して立ち上がる。老人が保守だと誰が決めたのだ。老人という言葉に定義はない。自分が老人だと思えば老人であり、自分から見て老人だと思える人は自分にとっては老人である。僕は今年還暦になる。まぎれもなく老人である。季語かき氷はまことに巧みな斡旋だが、すぐ崩れるようで切ない。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)


May 1552010

 麦秋をうすく遊んでもどりけり

                           伊藤淳子

句は自分にとって遊びかな、とふと思う。仕事と遊びに分類するなら、今もこれから先も間違いなく遊びだが、遊び、というと、ちょっと適当っぽいニュアンスが漂う。かといって、真剣な遊び、などという言い方はあまり好きではないし、と考えがまとまらない。掲出句、さらりとうすく遊んできたという作者である。麦秋、が心地よい時間を、もどりけり、がほどよい疲れを思わせる。たとえばそれが吟行旅行だとしても、ともかく何でも見ておかなくては、俳句にしなければ、などと考えず、目に映るもの、肌で感じるものを楽しみながら、時間の流れに身をまかせるような過ごし方のできる作者なのだ。やはり俳句は私にとっては、遊び、という言葉のゆとりの意味合いも含めて、一生楽しめる遊びだろう。『夏白波』(2003)所収。(今井肖子)


May 1652010

 蝿叩此処になければ何処にもなし

                           藤田湘子

も虫も、めったに部屋に入り込むことのないマンション生活の我が家では、一匹の蝿の音がするだけで、娘たちは大騒ぎをします。はやく窓の外に出してくれと、そのたびに頼まれますが、今やどこを探しても蝿叩きなどありません。それにしても昔は、何匹もの蝿が部屋の中を飛び回っているなんて、あたりまえの光景だったのに、いつごろから蝿の居場所はなくなってしまったのでしょうか。顔のまわりに飛び回るものがなく、わずらわしさがなくなったとは言うものの、この部屋には人間のほかにはどんな生き物もいないようにしてしまったのだなと、妙な寂しさも湧いてきます。今日の句は、一家に幾本かの蝿叩きが常備していた頃のことを詠んでいます。たしかに、蝿叩きをつるすための場所はあっても、そこにきちんとぶら下がっていることはありませんでした。前回蝿を叩いた場所の近くに、無造作に放り投げられているわけです。その、放り投げられた場所の周りに、若かった頃の家族が、ごろごろと寝そべっていた夏の日をにわかに思い出し、つらくも懐かしい気持ちなってしまいました。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


May 1752010

 胸を打つ麦秋の波焦げ臭し

                           櫻井ハル子

年この時期に久留米(福岡県)に出かけて行く。楽しみもいろいろあるけれど、その一つは、博多久留米間の鹿児島線の車窓に果てしない麦畑が展開していることだ。ちょうど「麦秋」の候。何度見ても、惚れ惚れするくらいに美しい。そんな景色を詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は麦秋を遠望したものではなく、麦秋のただ中にある人の句である。つまり麦刈りの現場をうたっていて、実はこうした句はあまり詠まれてこなかった。麦刈りにせよ田植えにせよ、多くの句は遠望の美というのか、労働現場から完全にはなれたところで詠まれている。戦後に流行した言葉を使うと、ほとんどが「青白きインテリ」の句になってしまっている。農家の子でもあった私には、いつもそのことが不満で、ひところは麦秋だろうが田植えだろうが、汗の匂いのしない句には単純に拒絶反応を起こしたものだ。農民には、美の享受の前に生活がある。苦しい労働がある。そのことに思いを馳せることなく「きれいだなあ」だなんて、ふざけるなと思っていた。芭蕉や蕪村の句だって、そういう観点からは同じこと。遊び人の慰みごとでしかない。掲句の「胸を打つ」は文字通りに労働のさなかの実感であり、「焦げ臭し」も麦畑にかがまなければ感じられない臭いだ。最近の農作業は機械化が進んでおり、もはやこうした麦刈りの実感もなくなっているはずだけれど、鹿児島本線の車窓から見える麦秋の風景に魅せられつつも思うのは、いつもこうしたことどもである。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 1852010

 夏帽子研修生と書かれたる

                           杉田菜穂

年度の四月一日から一ヵ月が過ぎたこの時期、新しい環境にそろそろ慣れるか、はたまた五月病と呼ばれる暗がりに落ち込んでしまうかは、大きな分かれ道である。見回せば木々の青葉は噴き出すような勢いで茂り、ジャスミンやバラなど香りの強い花が主張し、太陽はストレートに肌を射してくる。過激な自然を味方につけ一層元気になる人もいれば、ストレスを積み重ねている人にとっては圧倒され萎縮してしまう陽気なのかもしれない。研修や実習を経てから、本格的に就業する職場はさまざまだが、どれも特定した分野での必要な知識が磨かれる期間であり、初めての経験は緊張と高揚が繰り返されていることだろう。「研修生」とあることで、多少の失敗も「まぁ、しょうがないか」で済ませてもらえることもあるが、一人前までの道のりは遠くけわしいものだ。掲句は「夏帽子」の効果で、明るさが際立ち、若々しくのびのびとした肢体が描かれた。まばゆい夏の日差しのなかで、初々しい研修生たちの声が明るく響き、生涯のなかでもっともエキサイティングな一時期が過ぎてゆく。〈好き嫌い好き嫌い好き葡萄食ぶ〉〈クリスマスツリーの電気消す係〉『夏帽子』(2010)所収。(土肥あき子)


May 1952010

 初夏(はつなつ)や坊主頭の床屋の子

                           長嶋肩甲

主頭で子供時代を過ごした昔の子は、たいてい家庭で親がバリカンで頭を刈ってくれた。私も中学までそうだった。刈ってもらっているあの時間は、子供にとって退屈で神妙なひとときだった。母が手動のバリカンで刈ってくれるのだが、時々動きが鈍ったり狂ったりして、髪の毛を喰ってしまうことがあった。「痛い!」。「我慢せい!」と言って、バリカンで頭をコツンとやられた。挙句はトラ刈りに近い仕上がりになってしまうから、文句たらたら。「我慢せい! すぐに伸びら」。さすがに高校生になると床屋へ行った。床屋の子ならば、プロである親にきれいに刈ってもらって、初夏であればクリクリ坊主頭がいっそう涼しそうに見える。初夏の風に撫でられ、いい香りさえ匂ってきそうだ。トラ刈りを我慢させられる身にとっては、じつに羨ましかった。冬の坊主頭は寒そうだが、夏は他人の頭であっても眺めていて気持ちがいい。「理髪店」や「BARBER」ではなく「床屋」と表現したことで、懐かしい子供の坊主頭を想像させてくれる。肩甲は作家・長嶋有の俳号。『夕子ちゃんの近道』で第一回「大江健三郎賞」(2006)を受賞した。若いけれど、すでに句集『月に行く』『春のお辞儀』『健康な俳句』があり、屈託のない自在な世界をつくり出している。「めざましの裏は一人でみる冬日」「初夏やつまさき立ちで布団叩く」など。『健康な俳句』(2004)所収。(八木忠栄)


May 2052010

 夏来る農家の次男たるぼくに

                           小西昭夫

をわたって吹く風が陽射しに明るくきらめいている。すっかり故郷とはご無沙汰だけど来週あたりは田植えかなぁ、机上の書類に向けていた視線をふっと窓外に移したときそんな考えがよぎるのは「農家の次男」だからか。この限定があるからこそ夏を迎えての作者の心持ちが読み手に実感となって伝わってくる。高野素十の句に「百姓の血筋の吾に麦青む」という句があるが、掲句のなだらかな口語表現はその現代版といった味わい。素十の時代、家と土地は代々長男が受け継ぐ習わしだった。次男、三男は出稼ぎいくか、新天地を開発するか、街で新しい仕事へ就くほかなかったろう。自然から離れた仕事をしていても身のうちには自然の順行に従って生活が回っていた頃の感覚が残っている。青々とつらなる田んぼを思うだけ胸のうちが波立ってくるのかもしれない。今は家を継ぐのは長男と決まっているわけではないが、いったん都会へ就職すると定年になるまでなかなか故郷へ帰れない世の中。そんな人たちにとって、老いた両親だけの農村の営みは常に気にかかるものかもしれない。ゴールデンウィークや週末の休みを利用して田舎へ帰り、田んぼの畦塗りに、代掻きに忙しく立ち働いた人達も多かったかもしれない「今日からは青田とよんでよい青さ」「遠い日の遠い海鳴り夏みかん」。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2152010

 治水碑に抱きついてをり裸の子

                           原 拓也

ぜこの子は治水碑に抱きつくのだろうと思う人は先入観にアタマを支配されている。抱きつくには抱きつく理由があるのはもちろんだが、それを一句の中でなるほどと思わせる必要はない。治水碑という意味を優先させれば、感慨深げにその碑文に見入ったり、治水工事以前の民衆の苦しみを思ったり、それを作るにあたっての作業の苦労に思いを馳せたりするのは作品としては陳腐。もちろんそれは言わずともその思いを置いて渡り鳥なんかを飛ばしたりするのも同罪である。そこには常識はあっても「詩」はない。ようするに月並みである。現実は単純明快。その辺で泳いでいた子がふざけて治水碑に抱きつくこともあろう。現実は何だって起こり得るのだ。その意外感と現実感が新鮮。こういう句は、花鳥諷詠的に定番情緒の再現を狙っていてはできないし、言葉のバランスを計って「詩」を狙う作り方でもできない。意味を剥ぎ取られたひとつの「もの」を見つめる目、すなわち、自分の中の先入観を否定してまっさらなる「自分」を求める志向が必要である。「知」よりも「五感」を優先させる志向が。「俳句」(2008年10月号)所載。(今井 聖)


May 2252010

 泰山木の花に身を載せ揺られたし

                           林 昌華

供の頃住んでいた病院の官舎のすぐ近くに、広っぱ、とよばれていたグランドがあった。父は脊椎損傷の専門医で、その病院は元、傷兵院と呼ばれ戦争で車椅子の生活となった患者さん達が暮らす療養所だった。グランドは、昼間はテニスコートやアーチェリー場として使われ、夕方からは、学校から帰った官舎の子供が集まって遊ぶ広っぱになった。そこに泰山木の大木があった。官舎は古かったが広い縁側があり、朝夕二十数枚の雨戸を開け閉めするのが私達子供の役目で、毎日泰山木の木を見て過ごした。花を間近で見ると、ふんわりと空気を包むような形の花弁は大きくほんとうに白く、初夏の広っぱの匂いがした。患者さん達は皆車椅子を上手に操りスポーツを楽しみ、私達官舎に住む子供とよく遊んでくれた。思い出すのは優しい笑顔ばかりだけれど、戦争で傷を負い一生をその療養所で送ることを余儀なくされたのだったとあらためて思う。掲出句の心地よさは叶わぬ願いでありどこか極楽浄土も思わせる。泰山木の花の思い出は、療養所の広っぱと父の思い出でもある。『季寄せ 草木花』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


May 2352010

 空き缶がいつか見ていた夏の空

                           津沢マサ子

を書いていてどうにも行き詰まったときには、わたしの場合、登場人物に空を見上げさせます。空を見上げるという行為がもたらしてくれるものに、助けられることがしばしばあるからです。それというのも、八木重吉の有名な「あかんぼが空を見る」を持ち出すまでもなく、人生いろんなことがあるけれども、わたしたちは所詮、空をみつめて生まれ、空を見つめて日々を生き、空を見つめてこの世を去ってゆくからなのでしょう。気がつけば「空き缶」という言葉にも「空」がきちんと入っていて、つまりは空き缶の中には空がびっしりと詰まっているというわけです。どこから見ても明解な句ですが、唯一考えさせられるところは、「いつか」の1語。今ではなく「いつか」と言っているだけなのに、それだけで意味深げになるから不思議なものです。いつかの空に、いったいなにがあったのでしょうか。水溜りの脇に捨てられた空き缶とともに空を見つめれば、私の中もすっかりカラになって、喉もとまで空が満ちてくるような気がします。『角川大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 2452010

 臨時総会なる薄暗がりに日傘

                           渡辺誠一郎

う四十年以上も前のことを思い出した。在勤していた河出書房が倒産し、臨時の株主総会が開かれたのは青葉の季節だった。私は組合の書記長という立場から傍聴することになり、すさまじい怒号の飛び交う会合を体験したのだった。窓外の初夏の陽光とは裏腹に、会合は最後まで重苦しくやりきれない雰囲気に包まれた。会社側の社長以下重役陣はひたすら謝りつづけ、株主はひたすら怒鳴りまくり、しかしそんななかにも僅かながら冷静な株主もいて、それらの人がみな業界大手に属すると知れたときには、いっそうやりきれなさが募ったことも思い出された。句の臨時総会の中身はわからないが、「臨時」と言う以上、何かただならぬ事態が想像される。決して明るい総会ではあり得ない。作者の立場も読めないけれど、誰が立てかけたのか、会場の隅の薄暗がりに日傘があるのに気がついた。まったく事態は日傘どころではないのに、そんな個人的な日除けなんぞはどうでもよいときに、どういう了見からか、何事もないかのように持ち込まれた一本の日傘。日傘に罪は無いのだが、なんだか不適切、不謹慎にさえ思えてくる。一本の平凡な日傘も、ときに思わぬことを語りはじめるのである。「週刊俳句 Haiku Weekly」(第161号・2010年5月23日)所載。(清水哲男)


May 2552010

 そのあとの籐椅子海へ向きしまま

                           荒井千佐代

集のなかで「父の死後」と前書のある作品群の一句なので、「そのあと」とは父がこの世にない現在という意であることは明白なのだが、籐椅子の存在がぽっかりと口を開けたような悲しみを言うともなく引き出し、「そのあと」がどのあとであるかの含みや余韻を深くしている。密に編まれた籐椅子は、徐々に身体のかたちに馴染み、うっすらと凹凸が刻まれる。その窪みは、そこに座っていた者の等身大の輪郭である。あるじの重みをそのままかたちに残している籐椅子は、作者にとっていつまでも海を見ている父の姿そのものなのだろう。夏の季語である籐椅子は、夏の時期に涼を得るために使用されるものだが、この籐椅子はこれよりきっと通年そのままにされることだろう。そして、たまには懐かしむようにその窪みに収まり、以前父がしていたように海に目をやり、耳を傾けたり、家族がかわるがわる身体を預けることだろう。それはもう椅子というより、父の分身であるように思えてくる。〈炎天の産着は胸に取り込みぬ〉〈十字架のイエスが踏絵ふめといふ〉『祝婚歌』(2010)所収。(土肥あき子)


May 2652010

 五月雨ややうやく湯銭酒のぜに

                           蝶花楼馬楽

月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。(八木忠栄)


May 2752010

 雷が落ちてカレーの匂ひかな

                           山田耕司

はじめから天気が悪い。いよいよ雨の季節の到来だろうか。どしゃぶりの雨に空がゴロゴロ鳴り始めると犬が恐がって家中を走り回る。幼いころ裏庭の灯籠が雷の直撃を受けて真二つに裂けたことがある。落雷の瞬間の物凄い音と、翌日ぱっくり割れた石を見た恐ろしさは忘れない。今でも雨模様の空を遠くから雷が近づいてくると犬ばかりでなく落ち着かない気持ちになる。掲句を一読、落雷をカレーの匂いと結び付ける発想にびっくり。そう言われてみれば、ぴかっと落雷が落ちた瞬間、黄色っぽく照らし出される風景がカレーびたしに思えてくるから不思議だ。落雷への常套的な思い込みを捨てて感覚を働かせた結果、視覚が味覚へつながり奇抜に思える言葉が飛びだしてきたわけで、こちらも五感を働かせてイメージしてみればなかなか説得力がある。おじる気持ちも落雷なんて、カレーまみれになるだけさ、と思えば度胸がつくかも。掲句を含む句集には、そんな具合に楽しい大風呂敷があちこちに広げられている。「手をひつぱる鬼は夕焼け色だつた」「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」『大風呂敷』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2852010

 西日つよくて猪首坑夫の弔辞吃る

                           野宮猛夫

首(いくび)のリアル。吃る(どもる)のリアル。ここまで書くのかと思ってしまう。俳句はここまで書ける詩なのだ。俳句はおかしみ、俳句は打座即刻。俳句は風土。俳句は観照。そんな言葉がどうも嘘臭く思えるのは僕の品性の問題かもしれない。諧謔も観照も風土も或いは花鳥も、人生の喜怒哀楽やリアルを包含する概念だと言われるとああそうですかねとは言ってみてもどうも心の底からは納得しない。風流韻事としての熟達の「芸」を見せられてもそれが何なのだ。坑夫の弔辞であるから、炭鉱事故がすぐ浮ぶ。猪首と吃るでこの坑夫の人柄も体躯もまざと浮んでくる。作品の中の「私」は必ずしも実際の「私」とイコールでなくてもいい。その通りだ。ならば、こんなリアル、こんな「私」を言葉で創作してみろよと言いたい。ここまで「創る」ことができれば一流の脚本家になれる。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


May 2952010

 仏壇は要らぬさくらんぼがあれば

                           小西昭夫

笑んだ小さい写真一枚に、ガラスの器のさくらんぼ。初夏の風の吹き抜ける部屋で、またこの季節が来たわね、と写真に話かけたり。と、すがすがしい風景も想像される。果物の中で、これがとにかく大好物で、という話をよく聞く。他の食べものや野菜などに比べて、季節感が濃く、その時期にしか出回らないものが多いからだろう。知人にもいろいろいて、さくらんぼや西瓜を初め、無花果や枇杷から、ぐじゅぐじゅに熟した柿に目がないの、という人までいる。年に一度その旬を心待ちにする喜びがあるので、よりいっそう好きになるのだろう。仏壇は要らぬ、という断定の頑固さと、さくらんぼへの愛しさの結びつきに、作り事でない本心が見えて、おかしみのあとちょっとしみじみしてしまう。『小西昭夫句集』(2010)所収。(今井肖子)


May 3052010

 永遠はコンクリートを混ぜる音か

                           阿部青鞋

遠もコンクリートも、どの季節に属しているとも思えませんので、この句は無季句です。永遠を定義しようとする試みは、正面から向かうのはどうも無理なようですから、とんでもないもので説明するしか方法はないようです。たとえばこれを、「永遠はなべの底か」でも「永遠はキリンの咀嚼か」でも、最後を疑問形にしてしまえば、そこそこ意味がありそうに見えます。どんなふうに言ってみたところで、永遠を理解することなど、所詮できはしないのだという人の悲しみが、含まれてしまいます。死と愛が、詩の普遍のテーマであるなら、永遠はどちらにも寄り添うことのできる都合のいいテーマであるわけです。今からずっとずっと先、さらにそれよりも遠い未来があるということを考えているだけで、人は誰しも詩人になるしかありません。それにしても、どうして永遠がコンクリートを混ぜる音なのでしょうか。見ていても、いつまでも終わらないからだと、単にそれだけの意味なのでしょうか。まあ、いろんな解釈はあると思いますが、どれが正解かなんて、永遠の前でどんな意味を持つでしょう。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


May 3152010

 紫陽花や蔵に住みつく少年期

                           石井康久

宅難の時代の句だろう。子供たちが大きくなってきて、家が手狭になってきた。かといって、そう簡単に建て替えたりはできない。そこでもう使わなくなっていた小さな蔵を臨時の子供部屋として使うことになった。昼間だけそこで子供らが過ごすことになったのだが、少年だった作者はその部屋が気に入って、いつしか「住みつく」ようになったのである。蔵特有の小さな窓からは、この時期になるといつも母屋との間に咲いていた紫陽花が見えたものだった。だから大人になってからも、紫陽花を見ると少年期を思い出すのである。こう私に読めるのは、同じような体験があるからだ。高校時代にやはり家が狭くなったので、父が庭にミゼットハウスなる組み立て式の部屋を作り、私たち兄弟の勉強部屋とした。そして私もまた、母屋で寝ることを止めてしまい、そこに住みついたのだった。名目は深夜までの勉強のためだったけれど、夜になるとラジオばかりを聴いていた。また、大学生になってからは、実際に蔵を改造した下宿部屋に暮らしたこともある。そのときにはじめて、自分用の勉強机を持てたことなども懐かしく思い出された。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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