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2010ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0252010

 ぶらんこの人を降ろして重くなり

                           武仲敏治

語は「ぶらんこ」、春です。もともと文学というのは、人と違ったことを言いたがる傾向にありますから、ものの見方を逆にしてみるというのは、決して珍しいことではありません。それでも今日の句のように、このテクニックがまだまだ新鮮に感じられることがあるから、不思議なものです。要は、逆説的にものを見た、それだけではないものを作品が示してくれているかどうかにかかっているようです。この句では、ぶらんこは人が降りたら軽くなるのではなく、むしろ重くなるのだといわれて、ああそういう見方もあるのかと、なぜか頷いてしまいます。つまり、読み終わった瞬間に、理由はともかく、読者が頷いてくれるかどうかが作品成立の分かれ道です。長谷川櫂氏は、「今まで軽やかに揺れていたのに、もはや垂れたまま動かず」と、解説しています。なるほどそう言われてみればそうなのかと思います。ただ、擬人にとらわれてしまう私には、自分に思いを寄せてくれていた人が、突然去ったあとの心の重さのことなのだと、つい受け止めてしまうのですが。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年4月26日付)所載。(松下育男)


May 0152010

 定年はやがてくるもの花みづき

                           日下部宵三

日から五月、夏近し。とはいえ、どうもすっきりしない春だった、とぶつぶつ言っているうちに、花みづきが満開の通勤路である。花みづきは、歳時記では夏季だったり春季だったり。確かにあの眩しい白は、街を一気に初夏の景色にするけれど、春から夏へ、空の色も少しづつ変わってくる今頃の花だ。学校は当然の事ながら、皆等しく三月に定年退職となる。五十代も後半に突入して、その時がぐっと近づいてきた心地のこの頃だが、自由の身となった開放感を一ヶ月ほど味わったあと、満開の花みづきの白さに何を思うだろう。などと思いながら、やがて、を広辞苑で調べると、「本来は、間に介在するもののないさまをいう。」とあり、「すぐさま。ただちに。」が1.の意味になっている。2.の意味として、「まもなく。ほどなく。今に。」などあるが、それでも思っていたより、間近な印象だ。北米原産というこの花の、見ようによってはあっけらかんとした明るさに、急かされるような励まされるような不思議な気分になるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




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