暦の上では夏になりました。これからしばらくは気持ちのよい季節に。(哲




2010ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552010

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

日は「子供の日」、大型ゴールデン・ウィークの最後の日でもある。みなさま身も財布もクタクタ……でしょうか? 例外なく子供はカレーライスが大好き。いや、大人だって例外ではない。好みによって、家庭によって、それぞれ工夫されたカレーライスが作られる。子供にも楽しみながら簡単に作ることができる。私が子供の頃の田舎では、肉は容易に入手できなかったけれど、肉のかわりに鮭缶や鯨肉入りのものをよく食べさせられ、おいしかった。さて、子供の日に何かの集まりで、お母さんたちが大鍋にどっさり作ったカレーが振る舞われたのだろう。子供たちが寄ってたかって、あっという間に大鍋が空っぽになってしまったーという情景をごく素直に詠んだ句である。妙にテクニックを凝らすよりも、このストレートさがむしろ好ましい。それでいて、中七「カレー空っぽ」というKR音の重ね方が、明るいリズム感を生んでいる。隠された計算だろう。かつて和歌山で毒入りカレー事件なる物騒な事件が起きたけれど、一人でしみじみスプーンを口に運ぶというよりは、子供であれ、大人であれ、大勢寄ってたかってワイワイとにぎやかに食べるほうが、カレーライスはおいしいに決まっている。レストランのコックさんが作ったものよりも、お母さんがさりげなく作ったカレーがいちばんおいしい。不思議な料理である。私たちが食べるカレーのスタイルはインドではなく、イギリスで作られたものだそうだ。清水哲男『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)


May 0452010

 お早うと言ふはつなつのひびきなり

                           奥坂まや

成19年からは今日が「みどりの日」。先月29日の「昭和の日」となった元「みどりの日」には、なんだか人間の都合で移動していただいた感もあるが、ともあれ日本列島はGWのまっただ中。心地よい陽気に連なったお休みで、羽を伸ばしている方も多いだろう。「おはよう」には、「お早くから○○ですね」の前半が残された挨拶であるという。業種によっては、昼過ぎや夜間になっても「おはよう」の挨拶を交わすところがあるが、これも自分より早くから働いている人へのねぎらいとともに、スタートの意欲や意気込みが含まれるのだと思うと納得がいく。また、英語の「Good morning」にはたいてい最後に名前を付けて、その人へ、と向けられるが、日本語の「おはよう」には窓を開いて朝の光りに、若葉を満たした街路樹に、道ゆく猫に、と投げかけられ、万象から活気をもらうおまじないのような効用も感じられる。明日は立夏。暑いさなかの立秋や、こごえる立春など、少々やせがまんを強いられるような節気のなかで、唯一気温と言葉が一致する気分の良い節目である。「初夏(はつなつ)」のはつらつと清々しい季節にむかって、今朝は「おはよう」を言ってみる。『縄文』(2005)所収。(土肥あき子)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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