アテネ燃ゆ。もはや国のための辛抱などという発想は無い。日本にも。(哲




2010ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752010

 祭前お化けの小屋の木組建つ

                           橋詰沙尋

霊屋敷の木組ができあがる。木組に壁が貼られ、屋根で覆われ、その中に人間が扮した幽霊が配置され、それを観に善男善女が訪れる。木組のかたちを基点にしてやがて木組の目的や意図へ読者の思いがいたるときすっと作者の批評意識が見えてくる。この順序が要諦なのだ。皮肉も揶揄も箴言も象徴もその意図が初めから前面に出ると「詩」も「文学」もどこかに行ってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に優れたポエジーがあると思う人はあまりいないだろう。ものに見入って、そのままを写す。そこからかたちならざる観念に到れるか否か、それは詩神に委ねるしかない。「俳句研究」(1975年11月号)所載。(今井 聖)


May 0652010

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

緑の美しい季節になった。連休の2日目、陣馬山から景信山へ渡る尾根道から山の斜面を見下ろすと、古葉を落としみずみずしく生まれ変わる薄緑の若葉の茂りがはっきりと見て取れた。椎、樫、楠、欅、それぞれ樹皮の模様から枝ぶりまで多種多様で、ひとつひとつの名前を確かめながら、森や山をめぐるのは連休の楽しみのひとつ。イタリアのブルーノ・ムナーリの『木をかこう』という絵本にカシワの葉を良く見ると葉脈がカシワの木と同じかたちをしていると書かれている。樹形が葉脈に映し出されるなんて驚きだ。空へ大きく広げた枝を折りたたみ、折りたたみまとめるとその幹の太さになるとも。五月の光をいっぱいに受けながら茂りゆく木々にある不思議な法則。萌黄色の若葉を透かす眩しさに木の名前をだぶらせてその特徴ある樹形を、幹の手触りをいとおしみたい。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


May 0552010

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

日は「子供の日」、大型ゴールデン・ウィークの最後の日でもある。みなさま身も財布もクタクタ……でしょうか? 例外なく子供はカレーライスが大好き。いや、大人だって例外ではない。好みによって、家庭によって、それぞれ工夫されたカレーライスが作られる。子供にも楽しみながら簡単に作ることができる。私が子供の頃の田舎では、肉は容易に入手できなかったけれど、肉のかわりに鮭缶や鯨肉入りのものをよく食べさせられ、おいしかった。さて、子供の日に何かの集まりで、お母さんたちが大鍋にどっさり作ったカレーが振る舞われたのだろう。子供たちが寄ってたかって、あっという間に大鍋が空っぽになってしまったーという情景をごく素直に詠んだ句である。妙にテクニックを凝らすよりも、このストレートさがむしろ好ましい。それでいて、中七「カレー空っぽ」というKR音の重ね方が、明るいリズム感を生んでいる。隠された計算だろう。かつて和歌山で毒入りカレー事件なる物騒な事件が起きたけれど、一人でしみじみスプーンを口に運ぶというよりは、子供であれ、大人であれ、大勢寄ってたかってワイワイとにぎやかに食べるほうが、カレーライスはおいしいに決まっている。レストランのコックさんが作ったものよりも、お母さんがさりげなく作ったカレーがいちばんおいしい。不思議な料理である。私たちが食べるカレーのスタイルはインドではなく、イギリスで作られたものだそうだ。清水哲男『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)




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