佐藤慶逝く。大島組は新宿で賑やかだったが、佐藤さんは距離をおいて。(哲




2010ソスN5ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0852010

 葉桜や橋の上なる停留所

                           皆吉爽雨

留所があるほどなので、長くて広い橋だろう。葉桜の濃い緑と共に、花の盛りの頃の風景も浮かんでくる。最近は、バス停、と省略されて詠まれることも多い、バス停留所。こうして、停留所、とあらためて言葉にすると、ぼんやりとバスを待ちながら、まっすぐに続いている桜並木を飽かずに眺めているような、ゆったりした気分になる。大正十年の作と知れば、なおさら時間はゆっくり過ぎているように思え、十九歳で作句を始めた爽雨、その時二十歳と知れば、目に映るものを次々に俳句にする青年の、薫風を全身に受けて立つ姿が思われる。翌十一年には〈枇杷を食ふ腕あらはに病婦かな〉〈ころびたる児に遠ころげ夏蜜柑〉など、すでにその着眼点に個性が感じられる句が並んでいて興味深い。『雪解』(1938)所収。(今井肖子)


May 0752010

 祭前お化けの小屋の木組建つ

                           橋詰沙尋

霊屋敷の木組ができあがる。木組に壁が貼られ、屋根で覆われ、その中に人間が扮した幽霊が配置され、それを観に善男善女が訪れる。木組のかたちを基点にしてやがて木組の目的や意図へ読者の思いがいたるときすっと作者の批評意識が見えてくる。この順序が要諦なのだ。皮肉も揶揄も箴言も象徴もその意図が初めから前面に出ると「詩」も「文学」もどこかに行ってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に優れたポエジーがあると思う人はあまりいないだろう。ものに見入って、そのままを写す。そこからかたちならざる観念に到れるか否か、それは詩神に委ねるしかない。「俳句研究」(1975年11月号)所載。(今井 聖)


May 0652010

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

緑の美しい季節になった。連休の2日目、陣馬山から景信山へ渡る尾根道から山の斜面を見下ろすと、古葉を落としみずみずしく生まれ変わる薄緑の若葉の茂りがはっきりと見て取れた。椎、樫、楠、欅、それぞれ樹皮の模様から枝ぶりまで多種多様で、ひとつひとつの名前を確かめながら、森や山をめぐるのは連休の楽しみのひとつ。イタリアのブルーノ・ムナーリの『木をかこう』という絵本にカシワの葉を良く見ると葉脈がカシワの木と同じかたちをしていると書かれている。樹形が葉脈に映し出されるなんて驚きだ。空へ大きく広げた枝を折りたたみ、折りたたみまとめるとその幹の太さになるとも。五月の光をいっぱいに受けながら茂りゆく木々にある不思議な法則。萌黄色の若葉を透かす眩しさに木の名前をだぶらせてその特徴ある樹形を、幹の手触りをいとおしみたい。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)




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