東京郊外の三鷹でも、こんな光景は珍しい。昔は見向きもしなかった。(哲




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May 1252010

 皿の枇杷つぶらつぶらの灯なりけり

                           和田芳恵

杷の白い花が咲くのは冬だが、その実は五〜六月頃に熟す。枇杷の木は家屋敷内に植えるものではない、という言い伝えを耳にしたことがある。しかし、家のすぐ外に植えてある例をたくさん目にする。オレンジ色の豆電球のような実がびっしりと生(な)るのはみごとだけれども、緑の濃い葉の茂りがどことなく陰気に感じられてならない。その実一つ一つは豆電球のようないとしい形をしていて、まさしく「つぶらつぶらの灯」そのものである。食べる前に、しばし皿の上の「つぶら」を愛でている、の図である。あっさりとした甘味が喜ばれる。皮がぺろりとむけるのも、子供ならずともうれしく感じられる。それにしても、つぶらな実のわりに種がつるりとして、不釣り合いに大きいのは愛嬌と言っていいのかもしれない。「枇杷の種こつんころりと独りかな」(角川照子)という句を想う。千葉や長崎、鹿児島のものが味がよいとされるが、千葉では種無し枇杷を開発しているようだ。あの大きめの種が無いというのは、呆気ない気がするなあ。枇杷は山ほど食べたいとは思わないけれど、年に一度は旬のものを味わいたい。樋口一葉研究でよく知られた芳恵は、志田素琴について数年俳句を学んだことがあるという。夏の句に「ほととぎす夜の湖面を鋭くす」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1152010

 横顔は猛禽のもの青葉木菟

                           茨木和生

葉木菟は初夏にやってきて、秋に帰る梟科の鳥である。夜行性だが、青葉のなかで時折その姿を見ることもある。丸顔に収まった大きな目で小首を傾げる様子など、なんとも愛くるしいが、大型昆虫類を捕食する彼らはまた立派な猛禽類なのだ。数年前になるが、明治神宮を散歩していたときのこと。この木の上に青葉木菟のすみかがあると教えてもらった。「声も姿もしないのにどうしてわかるのだろう」と不思議だったが、木の根本を見て了解した。そこには腹だけもがれた蝉の死骸が散らばっていたのだ。可愛らしい丸顔に収まったくちばしは、正面から見る限り小さく存在感が薄いものだが、横向きになれば見事に湾曲したそれは、肉を引きちぎったり、掻き出したりすることに特化した鷹や鷲に通じるかたちがはっきりわかる。まだ羽を震わせているような蝉の残骸に、青葉木菟の横顔をしかと見た思いであった。〈雲の湧くところにも家栗の花〉〈青空の極みはくらし日雷〉『山椒魚』(2010)所収。(土肥あき子)


May 1052010

 苜蓿踏んで少年探偵団

                           小西昭夫

想句だろう。江戸川乱歩が創り出した「少年探偵団」は、戦前から戦後にかけて多くの少年たちを魅了した。私も虜になったひとりだが、いま振り返ってみると、魅力の秘密は次の二点に絞られると思う。その一つは登場する少年たちが大人と対等にふるまえたこと。もう一つは、掲句に関係するが、大都会が舞台であったことだ。探偵団は明智小五郎の補佐役という位置づけではあったけれど、数々の難事件に取り組むうちには、大人顔負けの活動も要求される。団長の小林少年などはなにしろピストルすら携帯していたのだから、立派な大人扱いである。しかも彼らの活躍舞台は、華やかな都・東京だ。探偵団の読者のほとんどは田舎かそれに近いところに暮らしていたので、東京というだけで胸の高鳴りを覚え、そこに住みかつ活躍する探偵団のメンバーには羨望の念を禁じ得なかったのだ。そんな読者の常で、いつしかファン気質が「ごっこ」遊びに発展してゆく。まさかピストルまでは持てないけれど、ちゃんと代替物を用意して、どこにもいるはずのない明智小五郎の指示に従い、怪人二十面相を追跡する遊びにしばし没入するというわけだ。そこで気分はすっかり探偵団になるのだが、哀しいことにここは東京じゃない。早い話が、二十面相を尾行する道も舗装などされていない田舎道であり、そこここには「苜蓿(うまごやし)・クローバー」なんぞが生えていたりする。それでも「ごっこ」に夢中になれたあの頃……。その純情が懐かしくもいとおしい。そんな思いが込められた一句だ。『小西昭夫句集』(2010)所収。(清水哲男)




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